トップページ 1: 船出(ふなで) いっせい はんにちとちほう こうか しゃしんはなよめ 2: 緊迫(きんぱく) にせい よくりゅうしょ じょうほうほうこく きょぎほうこく 3: 立ち退き(たちのき) あつりょく しみんどうめい しゅうようじょ ちゅうせいとうろく 4: 不和(ふわ) こうぎしゃたち そうきかいほう にゅうたい ツールレイク 5: 復帰(ふっき) さいしゅっぱつ ばいしょうきんうんどう げんだいのにっけいじん しんせだい ねんぴょう 原文 | ENGLISH 二(に)世(せい) 強制(きょうせい)立ち退き(たちのき)の前(まえ)に、高校(こうこう)の校長(こうちょう)と話し合う(はなしあう)二(に)世(せい)の学生(がくせい)(1942年(ねん))ワシントン州(しゅう)ベンブリッジ島(とう) Courtesy of the Bainbridge Island JapaneseAmerican Community 二(に)世(せい)とは、一世(いっせい)の移民(いみん)のアメリカ生まれ(うまれ)の子供(こども)達(たち)を指し(さし)ます。法律(ほうりつ)上(じょう)は正式(せいしき)なアメリカ国民(こくみん)で、日本(にほん)に対して(にたいして)宣戦(せんせん)布告(ふこく)が行わ(おこなわ)れた時(とき)も、敵国(てきこく)外国(がいこく)人(じん)として合法(ごうほう)的(てき)に投獄(とうごく)されることはできないはずの存在(そんざい)でした。しかしながら、戒厳令(かいげんれい)の敷(し)かれたハワイでは、逮捕(たいほ)、投獄(とうごく)された二世(にせい)が存在(そんざい)しました。それにもかかわらず、ルーズベルト大統領(だいとうりょう)が大統領(だいとうりょう)令(れい)に署名(しょめい)し、陸軍(りくぐん)に指定(してい)軍事(ぐんじ)地域(ちいき)から住民(じゅうみん)を排除(はいじょ)する許可(きょか)を与え(あたえ)た後(あと)、7万(まん)人(にん)以上(いじょう)の二(に)世(せい)が、一世(いっせい)の親(おや)と共に(とともに)強制(きょうせい)収容(しゅうよう)所(しょ)に送ら(おくら)れたのです。二世(にせい)の中(なか)には、日米(にちべい)両国(りょうこく)の移民法(いみんほう)の相違(そうい)により、二重国籍(にじゅうこくせき)保持者(ほじしゃ)も多(おお)く、これも二世(にせい)に対(たい)する疑惑(ぎわく)を招(まね)くことにつながりました。第(だい)二次(じ)世界(せかい)大戦(たいせん)中(ちゅう)、大部分(だいぶぶん)の二世(にせい)は10代(だい)か20代(だい)でしたが、当初(とうしょ)、収容所(しゅうようじょ)で指導者(しどうしゃ)的(てき)立場(たちば)に置(お)かれたこともあり、これは収容所(しゅうようじょ)内(ない)の世代(せだい)間(かん)の軋轢(あつれき)を生(う)み、一世(いっせい)の怒(いか)りを買(か)うことになりました。二世(にせい)は、日(にち)米(べい)二(に)カ国(かこく)の文化(ぶんか)の混ざり(まざり)合っ(あっ)た存在(そんざい)と言え(いえ)ます。家(いえ)の中(なか)では、両親(りょうしん)と日本(にほん)の食べ物(たべもの)、習慣(しゅうかん)、時には(ときには)宗教(しゅうきょう)も共に(ともに)しました。学校(がっこう)や家(いえ)の外(そと)の生活(せいかつ)では、アメリカの生活(せいかつ)態度(たいど)や好み(このみ)を身(み)につけます。ほとんどの二(に)世(せい)は、日本語(にほんご)学校(がっこう)に通わさ(かよわさ)れたものの、流暢(りゅうちょう)ではありませんでした。帰(き)米(べい)というのは、二(に)世(せい)の一部(いちぶ)で、ある時期(じき)日本(にほん)に送ら(おくら)れて教育(きょういく)を受け(うけ)、より日本(にほん)的(てき)な考え(かんがえ)を持っ(もっ)た人達(ひとたち)のことです。 次のトピックへ 当時(とうじ)を語る(かたる)インタビューから 日本(にほん)の習慣(しゅうかん)を持っ(もっ)た日本(にほん)の家庭(かてい)から来(き)て、幼稚園(ようちえん)に入っ(はいっ)た時(とき)には、英語(えいご)が全く(まったく)話せ(はなせ)ませんでした。学校(がっこう)生活(せいかつ)を通して(をとおして)、多く(おおく)のアメリカの習慣(しゅうかん)を学ん(まなん)だんです。アメリカの食べ物(たべもの)にも慣れ(なれ)ていなかったもので、学校(がっこう)の食堂(しょくどう)の食事(しょくじ)がとても珍しかっ(めずらしかっ)たですね。とてもよく覚え(おぼえ)ているのは、焼き(やき)たてであつあつの(アメリカ式(しき)の)ビスケットにバターを塗っ(ぬっ)たものでした。当時(とうじ)、日本人(にほんじん)はバターをほとんど使わ(つかわ)なかったんですけれど、このビスケットは、べったりとバターが塗っ(ぬっ)てあるんです。家(いえ)に帰っ(かえっ)て親(おや)に「学校(がっこう)でこんなに美味しい(おいしい)ビスケットを食べ(たべ)たのよ。どうして家(いえ)では食べ(たべ)られないの?」と言っ(いっ)たものです。親(おや)は、何(なに)の話(はなし)をしているのかも分かっ(わかっ)ていませんでした。先生(せんせい)達(たち)は、とても根気(こんき)よく教え(おしえ)てくれましたね。日本人(にほんじん)だけでなく、イタリア人(じん)移民(いみん)の子供(こども)もいましたからね。イタリア人達(じんたち)も、自分(じぶん)達(たち)特有(とくゆう)の味(あじ)がありました。私(わたし)も、にんにくの味(あじ)を教わり(おそわり)ましたよ。学校(がっこう)を通して(をとおして)、読み書き(よみかき)だけでなく、こういったアメリカや他(ほか)の国(くに)の文化(ぶんか)も学ん(まなん)だんだと思い(おもい)ます。 カズコ・ビル カリフォルニア州(しゅう)のツールレイク収容(しゅうよう)所(しょ)から開放(かいほう)された後(あと)、医師(いし)になったシアトルの二(に)世(せい)