第(だい)二(に)章(しょう): 緊迫(きんぱく)

公園での一家(1920年)ワシントン州、シアトル

日本(にほん)街(まち)で店(みせ)の前(まえ)に立つ(たつ)一世(いっせい)の男性(だんせい)(1930年(ねん))ワシントン州(しゅう)シアトル
Courtesy of Densho, the Mamiya Family Collection
日本(にほん)街(まち)の盆踊り(ぼんおどり)(1936年(ねん))ワシントン州(しゅう)シアトル
Courtesy of the Museum of History & Industry
シアトルの日本(にほん)町(まち)(1920年代(ねんだい))ワシントン州(しゅう)シアトル
Courtesy of the Museum of History & Industry
日系(にっけい)人(じん)から没収(ぼっしゅう)されたラジオを積み上げる(つみあげる)(1942年(ねん))ワシントン州(しゅう)シアトル
Courtesy of the Museum of History & Industry
司法省(しほうしょう)抑留(よくりゅう)所(しょ)に連行(れんこう)されて来(き)た一世(いっせい)達(たち)(1942年(ねん))モンタナ州(しゅう)、フォートミズーラ抑留(よくりゅう)所(しょ)
Courtesy of the K. Ross Toole Archives, University of Montana at Missoula

コミュニティーピクニック (1918年)ねん)
ワシントン州(しゅう)シアトル
Courtesy of Densho, the Mamiya Family Collection

アメリカに渡っ(わたっ)た日系(にっけい)移民(いみん)一(いっ)世(せい)達(たち)は、白人(はくじん)の住居(じゅうきょ)地区(ちく)では歓迎(かんげい)される存在(そんざい)ではなく、一部(いちぶ)地域(ちいき)に集まっ(あつまっ)て生活(せいかつ)するようになります。第(だい)二(に)次(じ)世界(せかい)大戦(たいせん)が始まる(はじまる)までの何(なん)十(じゅう)年(ねん)かの間(あいだ)に、各地(かくち)で日本人(にほんじん)のコミュニティーが形成(けいせい)されました。当時(とうじ)のアメリカ西海岸(にしかいがん)には、いくつもの日本(にほん)街(まち)が現れ(あらわれ)ています。一世(いっせい)達(たち)は日本(にほん)街(まち)で、店舗(てんぽ)を構え(かまえ)自営業(じえいぎょう)を始め(はじめ)ました。銭湯(せんとう)や日本語(にほんご)学校(がっこう)が開か(ひらか)れ、寺院(じいん)や教会(きょうかい)も建て(たて)られました。白人(はくじん)客(きゃく)向け(むけ)のレストラン、クリーニング店(てん)やホテルなども軒(のき)を並べる(ならべる)ようになりました。外国(がいこく)人(じん)土地(とち)法(ほう)で土地(とち)の所有(しょゆう)を規制(きせい)されていましたが、その規制(きせい)を回避(かいひ)しながら、多く(おおく)の一世(いっせい)達(たち)が農場(のうじょう)、牧場(ぼくじょう)、苗木(なえぎ)行(ゆき)などで成功(せいこう)を収める(おさめる)ようになりました。出身(しゅっしん)地域(ちいき)ごとに県人(けんじん)会(かい)が組織(そしき)され、地域(ちいき)の祝日(しゅくじつ)などに催し物(もよおしもの)を主催(しゅさい)したり、経済(けいざい)的(てき)な援助(えんじょ)も提供(ていきょう)したりする余裕(よゆう)もうまれました。一世(いっせい)達(たち)はアメリカ社会(しゃかい)から疎外(そがい)され、偏見(へんけん)を持た(もた)れていましたが、経済(けいざい)的(てき)には安定(あんてい)し、お互い(おたがい)支え(ささえ)あって暮らし(くらし)ていたのです。アメリカで生まれ(うまれ)た二(に)世(せい)達(たち)は成長(せいちょう)し、学業(がくぎょう)に励み(はげみ)、一世(いっせい)の両親(りょうしん)よりはアメリカ社会(しゃかい)に溶け(とけ)込める(こめる)のではないかという希望(きぼう)を持っ(もっ)て暮らし(くらし)ていました。

しかし一世(いっせい)達(たち)の成功(せいこう)は、また周囲(しゅうい)のアメリカ人(じん)達(たち)の反日(はんにち)感情(かんじょう)と恐れ(おそれ)を招く(まねく) ことにもなるのです。1930 年代(ねんだい)の日本(にほん)による中国(ちゅうごく)への侵略(しんりゃく)は、アメリカ国内(こくない)で日本人(にほんじん)に対する(にたいする)不信(ふしん)感(かん)を高め(たかめ)、両国(りょうこく)間(かん)の緊張(きんちょう)の高まり(たかまり)は、日本人(にほんじん)の血(ち)を引く(ひく)人達(ひとたち)への反感(はんかん)を強め(つよめ)ます。信用(しんよう)のおけない人種(じんしゅ)だという先入観(せんにゅうかん)に加え(くわえ)、危険(きけん)な敵国(てきこく)人(じん)としてのイメージも報道(ほうどう)されるようになりました。反日(はんにち)運動(うんどう)家(か)は、アメリカ在住(ざいじゅう)の日系(にっけい)人(じん)を、昭和(しょうわ)天皇(てんのう)の「秘密(ひみつ)部隊(ぶたい)」だと責め立て(せめたて)ました。

連邦(れんぽう)政府(せいふ)は、「戦争(せんそう)勃発(ぼっぱつ)の際(さい)に危険(きけん)性(せい)のある人物(じんぶつ)達(たち)」についての情報(じょうほう)報告(ほうこく)をまとめ、その中(なか)に日系(にっけい)移民(いみん)一(いっ)世(せい)と二(に)世(せい)を含み(ふくみ)ました。1941年(ねん)12月(がつ) 7日(なのか)、真珠湾(しんじゅわん)攻撃(こうげき)により、アメリカ国民(こくみん)である二(に)世(せい)も含め(ふくめ)、すべての日本(にほん)系(けい)の人々(ひとびと)は猜疑(さいぎ)と不信(ふしん)の目(め)で見(み)られるようになります。その数(すう)週間(しゅうかん)後(ご)には、連邦(れんぽう)捜査(そうさ)局(きょく)が2000人(にん)以上(いじょう)に及ぶ(およぶ)一世(いっせい)の指導(しどう)者(しゃ)的(てき)存在(そんざい)を逮捕(たいほ)し、在住(ざいじゅう)敵国(てきこく)人(じん)を抑留(よくりゅう)する「抑留(よくりゅう)所(しょ)」に送り(おくり)ました。日系(にっけい)の地区(ちく)では規制(きせい)が布か(しか)れ、住居(じゅうきょ)や事務所(じむしょ)の家宅(かたく)捜査(そうさ)、財産(ざいさん)没収(ぼっしゅう)、夜間(やかん)外出(がいしゅつ)禁止(きんし)令(れい)、旅行(りょこう)禁止(きんし)、銀行(ぎんこう)口座(こうざ)凍結(とうけつ)などが行わ(おこなわ)れたのです。新聞(しんぶん)には、西海岸(にしかいがん)に住(す)む日系人(にっけいじん)達(たち)がスパイ行為(こうい)や妨害(ぼうがい)行為(こうい)を行(い)っている、もしくは、ハワイの真珠湾(しんじゅわん)攻撃(こうげき)に日系人(にっけいじん)が加担(かたん)していたという虚偽(きょぎ)の政府(せいふ)報告(ほうこく)が掲載(けいさい)され、恐怖(きょうふ)に陥っ(おちいっ)た一般(いっぱん)市民(しみん)達(たち)は、日系(にっけい)人(じん)全体(ぜんたい)を監禁(かんきん)するべきだと要求(ようきゅう)し始める(はじめる)までに至り(いたり)ました。

 

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当時(とうじ)を語る(かたる)インタビューから

(1941年(ねん))12月(がつ)
7日(なのか)
の日曜日(にちようび)のことは、忘れ(わすれ)られませんね。(真珠湾(しんじゅわん)攻撃(こうげき)は) 最悪(さいあく)のニュースでしたよ。これから何(なに)か良く(よく)ないことが起こる(おこる)
だろうと感じ(かんじ)ましたね。決定的(けっていてき)な打撃(だげき)でした。それまでの偏見(へんけん)や差別(さべつ)に加え(くわえ)て、日本(にほん)のコミュニティーにとって最悪(さいあく)の出来事(できごと)です。皆(みな)それだけは分かっ(わかっ)ていました。家(いえ)に帰る(かえる)道(みち)で、これ以上(いじょう)いったいどんなことが起こる(おこる)んだと思い(おもい)ましたよ。明日(あした)は月曜日(げつようび)で学校(がっこう)に行く(いく)。でも、何(なに)のために学校(がっこう)に行く(いく)んだ? 戦争(せんそう)が始まっ(はじまっ)てしまって、これからどんなひどいことが待っ(まっ)てるんだろう? この世(このよ)の終わり(おわり)だと思い(おもい)ましたよ。とにかく、月曜日(げつようび)の朝(あさ)には、いつものように学校(がっこう)に行き(いき)ました。図書館(としょかん)へ行き(いき)ましてね。ひどく静か(しずか)でした。皆(みな)の目(め)が自分(じぶん)に向い(むい)ているのを感じる(かんじる)んです。それくらい、自分(じぶん)の日本人(にほんじん)の顔(かお)に対して(にたいして)、自意識(じいしき)過剰(かじょう)になっていたんですね。真珠湾(しんじゅわん)攻撃(こうげき)は、それは打撃(だげき)的(てき)なものでした。もう、我々(われわれ)のコミュニティーも終わり(おわり)だと思い(おもい)ましたね。学校(がっこう)に行っ(いっ)て、何(なに)になるんだと思っ(おもっ)たものです。もう将来(しょうらい)も、チャンスもなくなってしまったんですからね。その痛み(いたみ)は、皆(みな)分かり(わかり)あっていたと思い(おもい)ます。その精神(せいしん)的(てき)な苦痛(くつう)と言う(いう)ものをね。でもそんな気持ち(きもち)は内(うち)に秘め(ひめ)ていました。父親(ちちおや)や母親(ははおや)にも、これからどうなるんだと聞い(きい)たりしませんでしたね。ただ、これから厳しく(きびしく)なると言う(いう)ことだけは分かっ(わかっ)ていました。その後(そのご)の状況(じょうきょう)が、どんなにひどいものだったかはご存知(ごぞんじ)でしょう。

ヒロ・ニシムラ

1941年(ねん)12月(がつ)当時(とうじ)ワシントン州立(しゅうりつ)大学(だいがく)の生徒(せいと)だった二(に)世(せい)