第(だい)三(さん)章(しょう): 強制(きょうせい)立ち退き(たちのき)

張り出さ(はりださ)れた隔離(かくり)命令(めいれい)(1942年(ねん))カリフォルニア州(しゅう)サンフランシスコ
Courtesy of the National Archives and Records Administration
集団(しゅうだん)立ち退き(たちのき)(1942年(ねん))ワシントン州(しゅう)ベンブリッジ島(とう)
Courtesy of the Bainbridge Island Japanese American Community

集団(しゅうだん)立ち退き(たちのき)(1942年(ねん))ワシントン州(しゅう)ベンブリッジ島(とう)
Courtesy of the Museum of History & Industry

集団(しゅうだん)立ち退き(たちのき)後(ご)、閉鎖(へいさ)された日本(にほん)街(まち)の店舗(てんぽ)(1942年(ねん))ワシントン州(しゅう)シアトル
Courtesy of the Museum of History & Industry
バラック小屋(こや)の中(なか)の家族(かぞく)(1942年(ねん))ワシントン州(しゅう)ピュアラップ集合(しゅうごう)センター
Courtesy of the University of Washington Libraries
収容(しゅうよう)所(しょ)での子供(こども)(1943年(ねん))アイダホ州(しゅう)ミニドカ収容(しゅうよう)所(しょ)
Courtesy of the Museum of History & Industry

1942年(ねん)2月(がつ)、フランク・ルーズベルト大統領(だいとうりょう)は、「軍事(ぐんじ)活動(かつどう)に重要(じゅうよう)とみなされる地域(ちいき)から,いかなる人物(じんぶつ)でも追放(ついほう)できる権限(けんげん)」を軍(ぐん)に与え(あたえ)ます。当時(とうじ)のアメリカ陸軍(りくぐん)省(しょう)と西海岸(にしかいがん)の政治(せいじ)家(か)達(たち)からの圧力(あつりょく)によるものでした。指導(しどう)者(しゃ)達(たち)は日系(にっけい)人(じん)のアメリカ国家(こっか)に対する(にたいする)忠誠(ちゅうせい)心(しん)の有無(うむ)を疑問(ぎもん)視(し)し、「この地域(ちいき)からすべての日系(にっけい)人(じん)を排除(はいじょ)することが軍事(ぐんじ)上(じょう)必要(ひつよう)である」と唱え(となえ)ました。大統領(だいとうりょう)命令(めいれい)の告知(こくち)が西海岸(にしかいがん)の州(しゅう)に張り出さ(はりださ)れ、日本(にほん)国籍(こくせき)の一世(いっせい)だけでなく、アメリカ国籍(こくせき)を持つ(もつ)二(に)世(せい)も含め(ふくめ)、日本人(にほんじん)の血(ち)を引く(ひく)住民(じゅうみん)はすべて、移転(いてん)所(しょ)に出頭(しゅっとう)するようとの告知(こくち)がなされました。準備(じゅんび)のために与え(あたえ)られた期間(きかん)は約(やく)一(いち)週間(しゅうかん)で、持参(じさん)の許さ(ゆるさ)れたのは手(て)に持てる(もてる)だけの所持(しょじ)品(ひん)でした。財産(ざいさん)の借り手(かりて)がついたり、近所(きんじょ)の人(ひと)に財産(ざいさん)等(など)の世話(せわ)を頼め(たのめ)た幸運(こううん)な人(ひと)もいましたが、多く(おおく)の家族(かぞく)が、農場(のうじょう)、自宅(じたく)、経営(けいえい)している事業(じぎょう)を始め(はじめ)、全て(すべて)の財産(ざいさん)を失う(うしなう)か、二束三文(にそくさんもん)で売り払う(うりはらう)ことになったのです。こうしてどこに連れ(つれ)ていかれるのか、どれくらいの期間(きかん)になるのか等(など)知らさ(しらさ)れることなく、強制(きょうせい)的(てき)な「避難(ひなん)」が行わ(おこなわ)れました。政府(せいふ)の権力(けんりょく)者(しゃ)は、アメリカ市民(しみん)を追放(ついほう)することにはいささか抵抗(ていこう)があったので、二(に)世(せい)に対して(にたいして)は「非(ひ)外国(がいこく)人(じん)」という言い回し(いいまわし)を使っ(つかっ)ていました。

二(に)世(せい)の団体(だんたい)日系(にっけい)アメリカ市民(しみん)連盟(れんめい)は、アメリカ国家(こっか)に対する(にたいする)忠誠(ちゅうせい)心(しん)をあらわすためこの強制(きょうせい)立ち退き(たちのき)に従い(にしたがい)、「避難(ひなん)」を支持(しじ)するようにと呼びかけ(よびかけ)ました。西海岸(にしかいがん)の北(きた)から南(みなみ)まで、多(おお)くの日系(にっけい)家族(かぞく)が自(みずか)ら立(た)ち退(の)きに登録(とうろく)し、登録(とうろく)番号(ばんごう)を付(つ)けられ、その4分(ふん)の3にあたる人(ひと)たちが、武装兵(ぶそうへい)士(し)の監視(かんし)の下(した)にバスや汽車(きしゃ)による長(なが)い旅(たび)の末(すえ)、「集合(しゅうごう)センター」へと送(おく)られました。「集合(しゅうごう)センター」は、会場(かいじょう)となる空き地(あきち)や競馬(けいば)場(じょう)に急ごしらえ(きゅうごしらえ)で建て(たて)られた仮(かり)施設(しせつ)で、有刺鉄線(ゆうしてっせん)と監視(かんし)塔(とう)に囲ま(かこま)れていました。11万(まん)人(にん)以上(いじょう)の日系(にっけい)の老若男女(ろうにゃくなんにょ)が、厳しい(きびしい)暑(あつ)さと寒さ(さむさ)の中(なか)、バラックのほったて小屋(こや)に粗末(そまつ)な食事(しょくじ)、ついたてもないシャワーやトイレといった粗末(そまつ)な環境(かんきょう)で暮らす(くらす)ことを余儀なく(よぎなく)されたのです。それは、自由(じゆう)も誇り(ほこり)も奪わ(うばわ)れた生活(せいかつ)でした。

収容(しゅうよう)所(しょ)でソフトボールをする女性(じょせい)達(たち)(1942年(ねん))
カリフォルニア州(しゅう)、マンザナー収容(しゅうよう)所(しょ)
Courtesy of the National Archives and Records Administration

何(なん)ヶ月(かげつ)か後(あと)、「集合(しゅうごう)センター」に留置(りゅうち)されていた人々(ひとびと)は、内陸(ないりく)の人里(ひとざと)離れ(はなれ)た常設(じょうせつ)強制(きょうせい)収容(しゅうよう)所(しょ)に移さ(うつさ)れました。収容(しゅうよう)所(しょ)を運営(うんえい)するため、多く(おおく)の人(ひと)が低(てい)賃金(ちんぎん)で所内(しょない)の仕事(しごと)に就く(つく)ことになりました。収容(しゅうよう)所(しょ)での生活(せいかつ)のわずかながらの改善(かいぜん)のため、住居(じゅうきょ)宿舎(しゅくしゃ)は改良(かいりょう)が加え(くわえ)られたり、スポーツや娯楽(ごらく)が企画(きかく)されたりし、物質(ぶっしつ)的(てき)には最低(さいてい)の生活(せいかつ)を送る(おくる)ことができていました。しかしながら、罪(つみ)もなく囚われ(とらわれ)の身(み)のなっていることによる心理(しんり)的(てき)打撃(だげき)は免れ(まぬがれ)ません。連邦(れんぽう)政府(せいふ)は、このような日系(にっけい)人(じん)の拘留(こうりゅう)が、いずれは解消(かいしょう)されるべきことを承知(しょうち)していました。そこで、誰(だれ)が安全(あんぜん)かを見定め(みさだめ)たうえで収容(しゅうよう)所外(しょがい)に開放(かいほう)することとし、1943年(ねん)に忠誠(ちゅうせい)登録(とうろく)を行い(おこない)ました。忠誠(ちゅうせい)登録(とうろく)は日系(にっけい)人(じん)の間(あいだ)に怒り(いかり)と誤解(ごかい)を招き(まねき)、将来(しょうらい)への不安(ふあん)もあり、多く(おおく)の家庭(かてい)内(ない)で口論(こうろん)を引き起こし(ひきおこし)、家族(かぞく)を引き離す(ひきはなす)結果(けっか)になってしまったのです。

 

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当時(とうじ)を語る(かたる)インタビューから

(強制(きょうせい)立ち退き(たちのき)で)家(いえ)を出(で)て行く(いく)ことになった時(とき)には、あちこちの白人(はくじん)の家(いえ)に、家財道具(かざいどうぐ)を売っ(うっ)ては運ん(はこん)でいた感じ(かんじ)でしたね。それでとにかく後ろ髪(うしろがみ)をひかれながらも、あわただしく出(で)て行っ(いっ)たんです。母(はは)は、新しい(あたらしい)洗濯(せんたく)機(き)が自慢(じまん)だったんですけれど、それも売り払わ(うりはらわ)ないといけませんでした。新しい(あたらしい)料理(りょうり)用(よう)のコンロもです。後で(あとで)(売り(うり)たくないと)気(き)が変わっ(かわっ)たんですが、その時(とき)にはもう時(とき)すでに遅し(おそし)でした。お風呂(ふろ)場(ば)の焚き(たき)口(ぐち)にいろんなものくべて焼い(やい)たのを、はっきり覚え(おぼえ)ています。日本(にほん)のレコードとか、特に(とくに)日本(にほん)の親戚(しんせき)の写真(しゃしん)ですね。その当時(とうじ)、日本(にほん)軍(ぐん)にいた叔父(おじ)が何(なん)人(にん)かいましたからね。皆(みな)(アメリカ政府(せいふ)に)監視(かんし)されてるって噂(うわさ)があったんです。それで、日本(にほん)に関係(かんけい)あるものは全部(ぜんぶ)処分(しょぶん)されました。ひどい話(はなし)でしょう? 悲しい(かなしい)ことでしたけれど、これも、うちの家族(かぞく)だけじゃなかったのを覚え(おぼえ)てます。他(ほか)の人(ひと)たちも同じ(おなじ)ことでした。全部(ぜんぶ)置き去り(おきざり)で、帰っ(かえっ)て来(き)た時(とき)には、またいちからやり直し(やりなおし)でしたよ。家財道具(かざいどうぐ)の一部(いちぶ)は、どこかの倉庫(そうこ)に突っ込ま(つっこま)れたりしましてね。私(わたし)の部屋(へや)にあったローズ色(しょく)のカーペットだけが、まだそこに残っ(のこっ)ていたのを覚え(おぼえ)ています。

ノートン・チズ

シアトル東方(とうほう)の地区(ちく)から、カリフォルニア州(しゅう)パインデイルの集合(しゅうごう)センターに連行(れんこう)された二(に)世(せい)