第(だい)一(いち)章(しょう): 船出(ふなで)

アメリカへと移民(いみん)する一家(いっか)(1909年(ねん))場所(ばしょ)不明(ふめい)
Courtesy of Densho, the Magden Collectioon
日本(にほん)からの移民(いみん)達(たち)(1905年(ねん))場所(ばしょ)不明(ふめい)
Courtesy of Densho, the Magden Collectioon
一世(いっせい)の伐採(ばっさい)所(しょ)の労働(ろうどう)者(しゃ)(1915年(ねん))ワシントン州(しゅう)
Courtesy of the University of Washington Libraries
一世(いっせい)の独身(どくしん)者(しゃ)達(たち)(1910年(ねん))場所(ばしょ)不明(ふめい)
Courtesy of the University of Washington Libraries
写真(しゃしん)花嫁(はなよめ)の到着(とうちゃく)(1910年(ねん))カリフォルニア州(しゅう)、エンゼルアイランド
Courtesy of California State Parks

1885年(ねん)から1924年(ねん)ごろ、多く(おおく)の日本人(にほんじん)がアメリカへと向かい(むかい)ました。明治維新(めいじいしん)の土地(とち)や税制(ぜいせい)の改革(かいかく)で、特に(とくに)地方(ちほう)ではますます貧困(ひんこん)に拍車(はくしゃ)がかかり、若い(わかい)男性(だんせい)が、職(しょく)を求め(もとめ)てアメリカへと出(で)て行っ(いっ)たのです。これ以前(いぜん)にも1860年(ねん)後半(こうはん)に、ハワイやカリフォルニア州(しゅう)に渡っ(わたっ)た先駆(せんく)者(しゃ)もいました。彼ら(かれら)は日系(にっけい)移民(いみん)といわれ、後(のち)に続く(つづく)世代(せだい)と区別(くべつ)して「一世(いっせい)」と呼ば(よば)れるようになります。夢(ゆめ)や期待(きたい)を抱い(いだい)てアメリカに渡り(わたり)ましたが、彼ら(かれら)を迎え(むかえ)たものは、孤独(こどく)な独身(どくしん)者(しゃ)の労務者(ろうむしゃ)生活(せいかつ)と、過酷(かこく)な労働(ろうどう)条件(じょうけん)でした。彼ら(かれら)の雇わ(やとわ)れ労働(ろうどう)者(しゃ)としての職場(しょくば)は、ハワイのさとうきび農園(のうえん)、アメリカ本土(ほんど)の缶詰(かんづめ)工場(こうじょう)、材木(ざいもく)製材(せいざい)所(しょ)、鉄道(てつどう)建設(けんせつ)、農場(のうじょう)といったところです。その斡旋(あっせん)を行っ(おこなっ)たのは、当初(とうしょ)は日本(にほん)政府(せいふ)、後(のち)には民間(みんかん)の斡旋(あっせん)会社(かいしゃ)でした。アメリカ西海岸(にしかいがん)へ、個人(こじん)で移民(いみん)した人達(ひとたち)も多く(おおく)いました。土地(とち)の労働(ろうどう)組合(くみあい)は、このような日本人(にほんじん)労働(ろうどう)者(しゃ)達(たち)に対して(にたいして)強い(つよい)反感(はんかん)を抱き(いだき)ます。農場(のうじょう)経営(けいえい)者(しゃ)達(たち)もまた、勤勉(きんべん)な一世(いっせい)達(たち)の存在(そんざい)に、自分(じぶん)達(たち)の地位(ちい)を奪わ(うばわ)れるのでないかと脅威(きょうい)を感じる(かんじる)ようになりました。そこで労働(ろうどう)組合(くみあい)や農場(のうじょう)経営(けいえい)者(しゃ)たちは、日本人(にほんじん)を始め(はじめ)アジア人(じん)が土地(とち)を購入(こうにゅう)したり、借用(しゃくよう)することができないよう、外国(がいこく)人(じん)土地(とち)法(ほう)を制定(せいてい)させたのです。当時(とうじ)の日本(にほん)政府(せいふ)は、このような一(いっ)世(せい)に向け(むけ)られた差別(さべつ)的(てき)な措置(そち)に対し(にたいし)、抗議(こうぎ)を申し入れ(もうしいれ)ています。

マスコミや、政治(せいじ)家(か)、移民(いみん)排斥(はいせき)主義(しゅぎ)団体(だんたい) などは、「異(い)人種(じんしゅ)の『 黄禍(こうか)』が、米国(べいこく)を侵略(しんりゃく)している。」と取り沙汰(とりざた)しました。しかし、実際(じっさい)には1910年(ねん)の時点(じてん)における日本(にほん)からの移民(いみん)数(すう)は、アメリカ太平洋(たいへいよう)側(がわ)の人口(じんこう)のわずか1.5パーセントにしかすぎなかったのです。一世(いっせい)たちは差別(さべつ)的(てき)な連邦(れんぽう)法(ほう)によって、アメリカの市民(しみん)権(けん)を取得(しゅとく)することも許さ(ゆるさ)れず、選挙(せんきょ)権(けん)もなく、政治(せいじ)的(てき)な力(ちから)もない状況(じょうきょう)にありました。反日(はんにち)的(てき)な排斥(はいせき)同盟(どうめい)は、はさらに、日本(にほん)からの移民(いみん)を全面(ぜんめん)禁止(きんし)することを政府(せいふ)に要請(ようせい)します。そして1908年(ねん)、日(にち)米(べい)間(かん)で紳士(しんし)協定(きょうてい)が締結(ていけつ)され、日本人(にほんじん)労働(ろうどう)者(しゃ)の米国(べいこく)への入国(にゅうこく)が禁止(きんし)されることになりました。ただし、アメリカ在住(ざいじゅう)の日本人(にほんじん)の家族(かぞく)については、引き続き(ひきつづき)渡航(とこう)が許可(きょか)されました。

手続き(てつづき)を受ける(うける)写真(しゃしん)花嫁(はなよめ)達(たち)(1910年(ねん))
カリフォルニア州(しゅう)、エンゼルアイランド
Courtesy of California State Parks

そこで、一世(いっせい)の男性(だんせい)達(たち)の中(なか)には、日本(にほん)に一時(いちじ)帰国(きこく)して結婚(けっこん)し、花嫁(はなよめ)を連れ(つれ)てアメリカへと戻る(もどる)者(もの)もいました。また、写真(しゃしん)でしか見(み)たことのない一世(いっせい)男子(だんし)との結婚(けっこん)を決意(けつい)し、アメリカへ渡っ(わたっ)て行っ(いっ)た日本(にほん)女性(じょせい)もいたのです。彼女(かのじょ)達(たち)は「写真(しゃしん)花嫁(はなよめ)」と呼ば(よば)れ、何(なん)千(ぜん)人(にん)を越す(こす)女性(じょせい)達(たち)が、こうしてアメリカに渡っ(わたっ)たといわれています。これら花嫁(はなよめ)達(たち)の到着(とうちゃく)により、アメリカ生まれ(うまれ)の新しい(あたらしい)世代(せだい)が現れ(あらわれ)、「二(に)世(せい)」と呼ば(よば)れるようになります。しかし、このような日系(にっけい)アメリカ人(じん)の人口(じんこう)構成(こうせい)の変化(へんか)は、新た(あらた)な反日(はんにち)感情(かんじょう)を招く(まねく)結果(けっか)ともなりました。1924年(ねん)、日本(にほん)からの移民(いみん)を禁止(きんし)する移民(いみん)法(ほう)が制定(せいてい)され、ここで排斥(はいせき)主義(しゅぎ)者(しゃ)達(たち)の主張(しゅちょう)が認め(みとめ)られることとなったのです。

 

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当時(とうじ)を語る(かたる)インタビューから

私(わたし)の父(ちち)とその兄弟(きょうだい)達(たち)は、当時(とうじ)日本(にほん)で起こっ(おこっ)た大(だい)洪水(こうずい)で両親(りょうしん)を失っ(うしなっ)て、ほうぼうの親戚(しんせき)に預け(あづけ)られていました。明治維新(めいじいしん)で工業(こうぎょう)化(か)が進む(すすむ)なか、農家(のうか)には重税(じゅうぜい)が課せ(かせ)られて、農民(のうみん)は苦しい(くるしい)生活(せいかつ)を送っ(おくっ)ていたんです。その頃(ころ)日本(にほん)では職(しょく)もない若い(わかい)男(おとこ)達(たち)がたくさんいて、特に(とくに)親(おや)のいない者(もの)にとっては厳しい(きびしい)状況(じょうきょう)でした。そんな時(とき)、アメリカという大きく(おおきく)て素晴らしい(すばらしい)国(くに)があって、そこで財(ざい)を築ける(きづける)と知っ(しっ)たわけです。父(ちち)とその兄弟(きょうだい)は、(ワシントン州(しゅう)の)ベンブリッジ島(とう)へ渡っ(わたっ)て来(き)ました。当時(とうじ)世界一(せかいいち)の規模(きぼ)を持っ(もっ)たポートブレークリー製材(せいざい)所(しょ)があったんです。材木(ざいもく)は直径(ちょっけい)180センチをゆうに超える(こえる)大き(おおき)さで、木材(もくざい)の宝庫(ほうこ)でしたね。日本(にほん)を含め(ふくめ)て、世界(せかい)各地(かくち)から船(ふね)がやって来(やってき)ていました。でも過酷(かこく)な労働(ろうどう)条件(じょうけん)と安い(やすい)賃金(ちんぎん)に嫌気(いやけ)がさして、それで農場(のうじょう)を始める(はじめる)ようになったのです。

ジュンコウ・ハルイ

第(だい)二(に)次(じ)大戦(たいせん)後(ご)、ワシントン州(しゅう)のベンブリッジ島(とう)で、父親(ちちおや)の苗木(なえぎ)業(ぎょう)を立て直し(たてなおし)た二(に)世(せい)の男性(だんせい)