第(だい)四(よん)章(しょう): 不和(ふわ)

日本(にほん)へと発つ(たつ)本国(ほんごく)送還(そうかん)者(しゃ)(1945年(ねん))ワシントン州(しゅう)シアトル
Courtesy of the National Archives and Records Administration

収容(しゅうよう)所(しょ)から移動(いどう)させられる親日(しんにち)派(は)の奉仕(ほうし)団(だん)のメンバー(1945年(ねん))カリフォルニア州(しゅう)ツールレイク収容(しゅうよう)所(しょ)

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隊列(たいれつ)を組む(くむ)二(に)世(せい)兵(へい)(1943年(ねん))ミシシッピ州(しゅう)シェルビー訓練(くんれん)所(しょ)
Courtesy of the Seattle Nisei Veterans Committee and the U.S. Army
二(に)世(せい)兵(へい)(1944年(ねん))フランス、ブリュイエール
Courtesy of the Seattle Nisei Veterans Committee and the U.S. Army
収容(しゅうよう)所(しょ)退出(たいしゅつ)後(ご)の行き先(ゆきさき)を話し合う(はなしあう)二(に)世(せい)(1944年(ねん))アイダホ州(しゅう)ミニドカ収容(しゅうよう)所(しょ)
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第(だい)二(に)次(じ)世界(せかい)大戦(たいせん)中(ちゅう)の強制(きょうせい)収容(しゅうよう)所(しょ)への監禁(かんきん)政策(せいさく)の中(なか)で日系(にっけい)人達(じんたち)は、それぞれ選択(せんたく)を強い(しい)られました。 政府(せいふ)の政策(せいさく)に抗議(こうぎ)する人達(ひとたち)は処罰(しょばつ)が課せ(かせ)られました。1942年(ねん)の春(はる)に収容(しゅうよう)所(しょ)が開設(かいせつ)された直後(ちょくご)から、アメリカ政府(せいふ)は、アメリカに忠誠(ちゅうせい)心(しん)があるとされた日系(にっけい)人(じん)を、収容(しゅうよう)所(しょ)から解放(かいほう)して軍事(ぐんじ)隔離(かくり)地区(ちく)から離れ(はなれ)た地域(ちいき)に落ち着か(おちつか)せるという施策(しさく)を行っ(おこなっ)ていました。また、忠誠(ちゅうせい)心(しん)があるとされた日系(にっけい)人(じん)は、一時(いちじ)的(てき)に収容(しゅうよう)所(しょ)から出(で)て、戦争(せんそう)に取ら(とら)れた農園(のうえん)労働(ろうどう)者(しゃ)の代わり(かわり)に働く(はたらく)許可(きょか)を得る(える)ことも可能(かのう)でした。人道(じんどう)主義(しゅぎ)者(しゃ)や宗教(しゅうきょう)団体(だんたい)が後ろ(うしろ)盾(だて)となり、二(に)世(せい)の大学生(だいがくせい)を収容(しゅうよう)所(しょ)から出し(だし)て学校(がっこう)に戻す(もどす)といった活動(かつどう)も行なわ(おこなわ)れました。国家(こっか)の安全(あんぜん)を脅かす(おびやかす)人物(じんぶつ)ではないことを証明(しょうめい)し、地域(ちいき)住民(じゅうみん)の反対(はんたい)がない地区(ちく)で仕事(しごと)と住居(じゅうきょ)を確保(かくほ)すれば、収容(しゅうよう)所(しょ)を去る(さる)こともできました。この退出(たいしゅつ)政策(せいさく)は、若く(わかく)てアメリカ社会(しゃかい)になじんだ二(に)世(せい)にとって有利(ゆうり)であったために、収容(しゅうよう)所(しょ)から出(で)て行く(いく)者(もの)もあり、年老い(としおい)た一世(いっせい)は収容(しゅうよう)所(しょ)に残さ(のこさ)れるという結果(けっか)を招き(まねき)ます。

収容(しゅうよう)所(しょ)から出る(でる)ためのもうひとつの手段(しゅだん)は、アメリカ軍(ぐん)への入隊(にゅうたい)でした。第(だい)442連隊(れんたい)戦闘(せんとう)団(だん)は日系(にっけい)の兵士(へいし)だけで編成(へんせい)され、イタリアとフランスでの激しい(はげしい)戦闘(せんとう)で活躍(かつやく)し、後(のち)に日系(にっけい)アメリカ人(じん)の一般(いっぱん)的(てき)なイメージの向上(こうじょう)に役立つ(やくだつ)ことになります。二世(にせい)と帰(き)米(べい)兵士(へいし)は、太平洋(たいへいよう)地域(ちいき)の陸軍(りくぐん)情報(じょうほう)局(きょく)にも従事(じゅうじ)していました。兵士(へいし)達(たち)の中(なか)には、自分(じぶん)達(たち)の公民(こうみん)権(けん)の回復(かいふく)を訴え(うったえ)、徴兵(ちょうへい)忌避(きひ)の罪(つみ)で連邦(れんぽう)刑務所(けいむしょ)に投獄(とうごく)された者(もの)も300人(にん)以上(いじょう)いました。

ツールレイクから司法省(しほうしょう)管轄(かんかつ)の抑留(よくりゅう)所(しょ)に送ら(おくら)れる
親日(しんにち)派(は)の奉仕(ほうし)団(だん)のメンバー (1945年(ねん)) 
カリフォルニア州(しゅう)、 ツールレイク収容(しゅうよう)所(しょ)
Courtesy of the National Archives and Records Administration

1943年(ねん)に行わ(おこなわ)れた忠誠(ちゅうせい)登録(とうろく)は、日系(にっけい)コミュニティーに内部(ないぶ)亀裂(きれつ)をもたらし、それまでの人々(ひとびと)の生活(せいかつ)を大きく(おおきく)変え(かえ)ました。その中(なか)に含ま(ふくま)れていた「アメリカ軍(ぐん)に参加(さんか)するか」と「日本(にほん)の天皇(てんのう)への忠誠(ちゅうせい)を破棄(はき)するか」という二つ(ふたつ)の問い(とい)に「ノー」・「ノー」と答え(こたえ)た人(ひと)たちは、アメリカ政府(せいふ)に不(ふ)忠誠(ちゅうせい)とみなされたのです。そして、監視(かんし)度(ど)の高い(たかい)隔離(かくり)センターであるカリフォルニア州(しゅう)北部(ほくぶ)のツールレイク強制(きょうせい)収容(しゅうよう)所(しょ)に移さ(うつさ)れる結果(けっか)となりました。1944年(ねん)の冬(ふゆ)から1945年(ねん)にかけ、この収容(しゅうよう)所(しょ)では5500人(にん)以上(いじょう)の二(に)世(せい)がアメリカ市民(しみん)権(けん)を破棄(はき)し、戦争(せんそう)で大きな(おおきな)打撃(だげき)をこうむった日本(にほん)へと国外(こくがい)追放(ついほう)される可能(かのう)性(せい)に直面(ちょくめん)することになったのです。日本(にほん)に帰還(きかん)を望む(のぞむ)一世(いっせい)の親(おや)への思い(おもい)や、生まれ(うまれ)た国(くに)であるアメリカに拒絶(きょぜつ)された怒り(いかり)に影響(えいきょう)された決断(けつだん)でした。大(だい)部分(ぶぶん)の人(ひと)たちは戦後(せんご)、アメリカ市民(しみん)権(けん)を再(さい)取得(しゅとく)しています。

 

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当時(とうじ)を語る(かたる)インタビューから

収容(しゅうよう)所(しょ)での生活(せいかつ)は、とても楽しい(たのしい)と言える(いえる)ものではなかったので、どうにか出(で)て行き(いき)たいと思っ(おもっ)ていました。出所(しゅっしょ)許可(きょか)を貰っ(もらっ)てシカゴに住ん(すん)でいる友達(ともだち)が何(なん)人(にん)かいましてね。私(わたし)もすぐに収容(しゅうよう)所(しょ)を出(で)て、何(なん)千(ぜん)人(にん)かの人(ひと)たちと一緒(いっしょ)にシカゴへ行き(いき)ました。 大都市(だいとし)のほうが就職(しゅうしょく)口(ぐち)がありました。戦時(せんじ)中(ちゅう)で人手(ひとで)不足(ぶそく)だったんです。そこにある会社(かいしゃ)は、日系(にっけい)アメリカ人(じん)は良く(よく)働い(はたらい)て、良心(りょうしん)的(てき)だっていうんで喜ん(よろこん)で雇っ(やとっ)てくれましたよ。ほとんどの仕事(しごと)は、ホテルのメードや、レストランの皿洗い(さらあらい)といった、サービス業(ぎょう)の下働き(したばたらき)でしたけれどね。でも、収容(しゅうよう)所(しょ)を出(で)られただけで、嬉しかっ(うれしかっ)たんです。仕事(しごと)を持っ(もっ)て、市民(しみん)としてまた自由(じゆう)を味わえる(あじわえる)ことが嬉しく(うれしく)てね。ついに自由(じゆう)になったんだ、と思い(おもい)ました。

ジョージ・ヨシダ

1943年(ねん)に21歳(さい)でアリゾナ州(しゅう)のポストン収容(しゅうよう)所(しょ)を出る(でる)