第(だい)五(ご)章(しょう): 復帰(ふっき)

収容(しゅうよう)所(しょ)から出所(しゅっしょ)していく人(ひと)(1946年(ねん))カリフォルニア州(しゅう)ツールレイク収容(しゅうよう)所(しょ)
Courtesy of the National Archives and Records Administration
収容(しゅうよう)所(しょ)を後(ご)にする人達(ひとたち)(1943年(ねん))カリフォルニア州(しゅう)マンザナー収容(しゅうよう)所(しょ)
Courtesy of the Library of Congress, photographer Ansel Adams
反日(はんにち)ポスターを貼り(はり)出す(だす)男性(だんせい)「ジャップの帰還(きかん)に絶対(ぜったい)反対(はんたい)」(1944年(ねん))ワシントン州(しゅう)ケント
Courtesy of the Bettmann Archive / Corbis Co
シアトル日本(にほん)町(まち)のせがみ屋(や)菓子(かし)店(てん)(1965年(ねん))ワシントン州(しゅう)シアトル
Courtesy of Densho, the Mamiya Family Collection
1988年(ねん)自由(じゆう)市民(しみん)法(ほう)に署名(しょめい)するロナルド・レーガン大統領(だいとうりょう)(1988年(ねん))ワシントンDC
Courtesy of Densho, The Kinoshita Family Collection
収容(しゅうよう)所(しょ)跡地(あとち)を眺める(ながめる)日系(にっけい)人(じん)(1997年(ねん))カリフォルニア州(しゅう)ツールレイク収容(しゅうよう)所(しょ)
Courtesy of Densho, the Watanabe Family Collection

第(だい)二(に)次(じ)世界(せかい)大戦(たいせん)中(ちゅう)の、日本(にほん)の血(ち)を受け継い(うけつい)だ人達(ひとたち)の集団(しゅうだん)拘留(こうりゅう)は、日系(にっけい)アメリカ人(じん)の地域(ちいき)社会(しゃかい)を劇的(げきてき)に変え(かえ)ました。強い(つよい)横(よこ)のつながりを持っ(もっ)ていた日本人(にほんじん)街(まち)や農場(のうじょう)地域(ちいき)は崩壊(ほうかい)し、一世(いっせい)が汗(あせ)を流し(ながし)て築い(きずい)てきたものは壊れ(こわれ)去り(さり)、二(に)世(せい)の世代(せだい)が日系(にっけい)社会(しゃかい)の指導(しどう)的(てき)な役割(やくわり)を担う(になう)ようになりました。1945年(ねん)に日本(にほん)との戦争(せんそう)が終わり(おわり)、収容(しゅうよう)所(しょ)閉鎖(へいさ)後(ご)、収容(しゅうよう)されていた多く(おおく)の人達(ひとたち)はアメリカ西海岸(にしかいがん)地域(ちいき)へ戻っ(もどっ)て来(き)ました。そしてそこで日系(にっけい)家族(かぞく)は、自分(じぶん)たちの財産(ざいさん)が破損(はそん) 、紛失(ふんしつ)している現状(げんじょう)を目の当たり(まのあたり)にするのです。

また、反日(はんにち)感情(かんじょう)の強い(つよい)西海岸(にしかいがん)地区(ちく)を逃れ(のがれ)、中西部(ちゅうせいぶ)や東部(とうぶ)で出直し(でなおし)を図ろ(はかろ)うとする日系(にっけい)人(じん)も多く(おおく)いました。アメリカ全体(ぜんたい)で職(しょく)も住居(じゅうきょ)も不足(ふそく)している時期(じき)です。当時(とうじ)持た(もた)れていた反日(はんにち)感情(かんじょう)のため、収容(しゅうよう)所(しょ)帰り(がえり)の人達(ひとたち)の職(しょく)探し(さがし)や家探し(いえさがし)は厳しい(きびしい) ものでした。ハリー・トルーマン 大統領(だいとうりょう)はホワイトハウスの演説(えんぜつ)で、日系(にっけい)人(じん)兵士(へいし)で組織(そしき)された第(だい)442連隊(れんたい)戦闘(せんとう)団(だん)に対し(にたいし)「あなた達(たち)は敵国(てきこく)と戦っ(たたかっ)ただけではなく、偏見(へんけん)とも戦っ(たたかっ)て勝利(しょうり)を得(え)た」と讃え(たたえ)たにもかかわらず、その帰還(きかん)兵(へい)でさえ、人種(じんしゅ)差別(さべつ)と拒絶(きょぜつ)に迎え(むかえ)られました。

 賠償(ばいしょう)金(きん)請求(せいきゅう)の公聴(こうちょう)会(かい) (1981年(ねん))
ワシントン州(しゅう)、シアトル
Courtesy of the National Archives and Records Administration

一世(いっせい)が年老い(としおい)、二(に)世(せい)がキャリアと家族(かぞく)を築く(きずく)うちに、痛ましい(いたましい)強制(きょうせい)収容(しゅうよう)所(しょ)の記憶(きおく)は、かたすみに追いやら(おいやら)れるようになります。戦後(せんご)、アメリカ主義(しゅぎ)が強く(つよく)打ち出さ(うちださ)れるに従って(にしたがって)、二(に)世(せい)は自(じ)分(ぶん)達(たち)の日本(にほん)の部分(ぶぶん)を表(おもて)に出す(だす)こともなくなりました。三世(さんせい)の子供(こども)達(たち)に、収容(しゅうよう)所(しょ)の記憶(きおく)を語る(かたる)こともありませんでした。1960年代(ねんだい)後半(こうはん)になって、三(さん)世(せい)の活動(かつどう)家(か)と二(に)世(せい)の指導(しどう)者(しゃ)達(たち)が、裁判(さいばん)と立法(りっぽう)により、連邦(れんぽう)政府(せいふ)に対し(にたいし)賠償(ばいしょう)金(きん)の要求(ようきゅう)を始め(はじめ)ます。1988年(ねん) にロナルド・レーガン 大統領(だいとうりょう)が、戦時(せんじ)中(ちゅう)の不正(ふせい)な拘留(こうりゅう)の被害(ひがい)を受け(うけ)た存命(ぞんめい)の被害(ひがい)者(しゃ)全員(ぜんいん)に、それぞれ2万(まん)ドルの賠償(ばいしょう)金(きん)の支払い(しはらい)と、大統領(だいとうりょう)公式(こうしき)謝罪(しゃざい)を認める(みとめる)法律(ほうりつ)に署名(しょめい)するに至り(いたり)、この賠償(ばいしょう)金(きん)請求(せいきゅう)は成功裏(せいこうり)に終わり(おわり)ました。

現代(げんだい)の日本人(にほんじん)の血(ち)を引く(ひく)アメリカ人(じん)たちは、その伝統(でんとう)に誇り(ほこり)を持っ(もっ)て活躍(かつやく)しています。日(にち)米(べい)間(かん)の強い(つよい)絆(きずな)から、新(しん)世代(せだい)の日本人(にほんじん)移民(いみん)達(たち)も日系(にっけい)アメリカ人(じん)の歴史(れきし)に新た(あらた)なページを加え(くわえ)ています。アメリカ政府(せいふ)が、再び(ふたたび)ある人種(じんしゅ)の拘束(こうそく)を行う(おこなう)ようなことをするとは思え(おもえ)ません。しかし、国際(こくさい)化(か)が進展(しんてん)し、国家(こっか)の安全(あんぜん)保障(ほしょう)を真剣(しんけん)に考慮(こうりょ)すべきこの時代(じだい)に、第(だい)二(に)次(じ)世界(せかい)大戦(たいせん)の収容(しゅうよう)所(しょ)の悲劇(ひげき)をかんがみることは価値(かち)のあることではないでしょうか。

 

まえへ まえへ

当時(とうじ)を語る(かたる)インタビューから

(収容(しゅうよう)所(しょ)から帰っ(かえっ)た後(あと)、知り合い(しりあい)の)林(はやし)さんは、下宿(げしゅく)屋(や)を経営(けいえい)していたので、それを修理(しゅうり)しました。お寺(おてら)にホステルを設置(せっち)するのも助け(たすけ)てくれましたね。仮(かり)ベッドや毛布(もうふ)なんかを、用意(ようい)してくれたんです。でもお寺(おてら)にはシャワー施設(しせつ)がなくてね。トイレはあったんですが、シャワーはなかったんです。とにかく皆(みな)、私(わたし)の家(いえ)で風呂(ふろ)に入り(はいり)ましたね。軍(ぐん)のバラックみたいなものでしたよ。いろんな家族(かぞく)が一緒(いっしょ)に住ん(すん)で、大部屋(おおべや)に一緒(いっしょ)に雑魚寝(ざこね)です。「これじゃあ、収容(しゅうよう)所(しょ)と一緒(いっしょ)だね」って言っ(いっ)たものです。皆(みな)、仕事(しごと)と住む(すむ)所(ところ)を探し(さがし)て出かけ(でかけ)ました。その頃(ころ)、ワトソンビルの農(のう)商工(しょうこう)会議(かいぎ)所(しょ)は、我々(われわれ)を迎え入れ(むかえいれ)ない、雇わ(やとわ)ない、物(もの)を売ら(うら)ない、土地(とち)家屋(かおく)を貸さ(かさ)ないという提案(ていあん)を15対(たい)3で可決(かけつ)しましてね。「その(反対(はんたい)してくれた)3人(にん)は誰(だれ)なんだ?」って言い(いい)ましたね。 (この反日(はんにち)的(てき)方針(ほうしん)に賛成(さんせい)した)15人(にん)のことなんかどうでもいい。関係(かんけい)ありゃしない。勇気(ゆうき)を持っ(もっ)て、我々(われわれ)のために立ち上がっ(たちあがっ)て、また迎え入れ(むかえいれ)てくれた、その3人(にん)が誰(だれ)だったのか知り(しり)たかったんです。メイン通り(どおり)には「ジャップ禁止(きんし)」「ジャップお断り(おことわり)」の看板(かんばん)が目(め)につきました。徴兵(ちょうへい)はまだ続い(つづい)ていました。戦争(せんそう)は終わっ(おわっ)ていたんですが、まだ徴兵(ちょうへい)されて、若い(わかい)ハワイ出身(しゅっしん)の二(に)世(せい)がオード軍事(ぐんじ)訓練(くんれん)センターで訓練(くんれん)を受け(うけ)てました。仏教(ぶっきょう)会(かい)に寿司(すし)を食べ(たべ)に来(き)たものです。そいつらは、メイン通り(どおり)にそんな看板(かんばん)を見る(みる)と、その店(みせ)に入っ(はいっ)ては、はずして破い(やぶい)ていました。ワトソンビル出身(しゅっしん)の帰還(きかん)兵(へい)は、そんなことはしません。静か(しずか)で「我慢(がまん)しろ」とか「ことを荒(あら)げるな」っていうふうでした。でもハワイの二(に)世(せい)達(たち)は、我慢(がまん)しませんでしたよ。我々(われわれ)はそれが有難かっ(ありがたかっ)たものです。

マス・ハシモト

10歳(さい)の時(とき)にアリゾナ州(しゅう)のポストン収容(しゅうよう)所(しょ)から開放(かいほう)され、カリフォルニア州(しゅう)のワトソンビルに帰る(かえる)