賠償(ばいしょう)(きん)請求(せいきゅう)公聴(こうちょう)(かい)
(1981(ねん))
ワシントン(しゅう)、シアトル
Courtesy of the National Archives and Records Administration
(だい)()(しょう)復帰(ふっき)

(だい)()()世界(せかい)大戦(たいせん)(ちゅう)の、日本(にほん)()受け継い(うけつい)人達(ひとたち)集団(しゅうだん)拘留(こうりゅう)は、日系(にっけい)アメリカ(じん)地域(ちいき)社会(しゃかい)劇的(げきてき)変え(かえ)ました。強い(つよい)(よこ)のつながりを持っ(もっ)ていた日本人(にほんじん)(まち)農場(のうじょう)地域(ちいき)崩壊(ほうかい)し、一世(いっせい)(あせ)流し(ながし)築い(きずい)てきたものは壊れ(こわれ)去り(さり)()(せい)世代(せだい)日系(にっけい)社会(しゃかい)指導(しどう)(てき)役割(やくわり)担う(になう)ようになりました。1945(ねん)日本(にほん)との戦争(せんそう)終わり(おわり)収容(しゅうよう)(しょ)閉鎖(へいさ)()収容(しゅうよう)されていた多く(おおく)人達(ひとたち)はアメリカ西海岸(にしかいがん)地域(ちいき)戻っ(もどっ)()ました。そしてそこで日系(にっけい)家族(かぞく)は、自分(じぶん)たちの財産(ざいさん)破損(はそん)紛失(ふんしつ)している現状(げんじょう)目の当たり(まのあたり)にするのです。

また、反日(はんにち)感情(かんじょう)強い(つよい)西海岸(にしかいがん)地区(ちく)逃れ(のがれ)中西部(ちゅうせいぶ)東部(とうぶ)出直し(でなおし)図ろ(はかろ)うとする日系(にっけい)(じん)多く(おおく)いました。アメリカ全体(ぜんたい)(しょく)住居(じゅうきょ)不足(ふそく)している時期(じき)です。当時(とうじ)持た(もた)れていた反日(はんにち)感情(かんじょう)のため、収容(しゅうよう)(しょ)帰り(がえり)人達(ひとたち)(しょく)探し(さがし)家探し(いえさがし)厳しい(きびしい) ものでした。ハリー・トルーマン 大統領(だいとうりょう)はホワイトハウスの演説(えんぜつ)で、日系(にっけい)(じん)兵士(へいし)組織(そしき)された(だい)442連隊(れんたい)戦闘(せんとう)(だん)に対し(にたいし)「あなた(たち)敵国(てきこく)戦っ(たたかっ)ただけではなく、偏見(へんけん)とも戦っ(たたかっ)勝利(しょうり)()た」と讃え(たたえ)たにもかかわらず、その帰還(きかん)(へい)でさえ、人種(じんしゅ)差別(さべつ)拒絶(きょぜつ)迎え(むかえ)られました。

一世(いっせい)年老い(としおい)()(せい)がキャリアと家族(かぞく)築く(きずく)うちに、痛ましい(いたましい)強制(きょうせい)収容(しゅうよう)(しょ)記憶(きおく)は、かたすみに追いやら(おいやら)れるようになります。戦後(せんご)、アメリカ主義(しゅぎ)強く(つよく)打ち出さ(うちださ)れるに従って(にしたがって)()(せい)()賠償金請求の公聴会(ぶん)(たち)日本(にほん)部分(ぶぶん)(おもて)出す(だす)こともなくなりました。三世(さんせい)子供(こども)(たち)に、収容(しゅうよう)(しょ)記憶(きおく)語る(かたる)こともありませんでした。1960年代(ねんだい)後半(こうはん)になって、(さん)(せい)活動(かつどう)()()(せい)指導(しどう)(しゃ)(たち)が、裁判(さいばん)立法(りっぽう)により、連邦(れんぽう)政府(せいふ)に対し(にたいし)賠償(ばいしょう)(きん)要求(ようきゅう)始め(はじめ)ます。1988(ねん) にロナルド・レーガン 大統領(だいとうりょう)が、戦時(せんじ)(ちゅう)不正(ふせい)拘留(こうりゅう)被害(ひがい)受け(うけ)存命(ぞんめい)被害(ひがい)(しゃ)全員(ぜんいん)に、それぞれ2(まん)ドルの賠償(ばいしょう)(きん)支払い(しはらい)と、大統領(だいとうりょう)公式(こうしき)謝罪(しゃざい)認める(みとめる)法律(ほうりつ)署名(しょめい)するに至り(いたり)、この賠償(ばいしょう)(きん)請求(せいきゅう)成功裏(せいこうり)終わり(おわり)ました。

現代(げんだい)日本人(にほんじん)()引く(ひく)アメリカ(じん)たちは、その伝統(でんとう)誇り(ほこり)持っ(もっ)活躍(かつやく)しています。(にち)(べい)(かん)強い(つよい)(きずな)から、(しん)世代(せだい)日本人(にほんじん)移民(いみん)(たち)日系(にっけい)アメリカ(じん)歴史(れきし)新た(あらた)なページを加え(くわえ)ています。アメリカ政府(せいふ)が、再び(ふたたび)ある人種(じんしゅ)拘束(こうそく)行う(おこなう)ようなことをするとは思え(おもえ)ません。しかし、国際(こくさい)()進展(しんてん)し、国家(こっか)安全(あんぜん)保障(ほしょう)真剣(しんけん)考慮(こうりょ)すべきこの時代(じだい)に、(だい)()()世界(せかい)大戦(たいせん)収容(しゅうよう)(しょ)悲劇(ひげき)をかんがみることは価値(かち)のあることではないでしょうか。

 

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収容(しゅうよう)(しょ)から出所(しゅっしょ)していく(ひと)(1946(ねん)
カリフォルニア(しゅう)、ツールレイク収容(しゅうよう)(しょ)
Courtesy of the National Archives and Records Administration

当時(とうじ)語る(かたる)インタビューから


収容(しゅうよう)(しょ)から帰っ(かえっ)(あと)知り合い(しりあい)の)(はやし)さんは、下宿(げしゅく)()経営(けいえい)していたので、それを修理(しゅうり)しました。お寺(おてら)にホステルを設置(せっち)するのも助け(たすけ)てくれましたね。(かり)ベッドや毛布(もうふ)なんかを、用意(ようい)してくれたんです。でもお寺(おてら)にはシャワー施設(しせつ)がなくてね。トイレはあったんですが、シャワーはなかったんです。とにかく(みな)(わたし)(いえ)風呂(ふろ)入り(はいり)ましたね。(ぐん)のバラックみたいなものでしたよ。いろんな家族(かぞく)一緒(いっしょ)住ん(すん)で、大部屋(おおべや)一緒(いっしょ)雑魚寝(ざこね)です。「これじゃあ、収容(しゅうよう)(しょ)一緒(いっしょ)だね」って言っ(いっ)たものです。(みな)仕事(しごと)住む(すむ)(ところ)探し(さがし)出かけ(でかけ)ました。その(ころ)、ワトソンビルの(のう)商工(しょうこう)会議(かいぎ)(しょ)は、我々(われわれ)迎え入れ(むかえいれ)ない、雇わ(やとわ)ない、(もの)売ら(うら)ない、土地(とち)家屋(かおく)貸さ(かさ)ないという提案(ていあん)を15(たい)3で可決(かけつ)しましてね。「その(反対(はんたい)してくれた)3(にん)(だれ)なんだ?」って言い(いい)ましたね。 (この反日(はんにち)(てき)方針(ほうしん)賛成(さんせい)した)15(にん)のことなんかどうでもいい。関係(かんけい)ありゃしない。勇気(ゆうき)持っ(もっ)て、我々(われわれ)のために立ち上がっ(たちあがっ)て、また迎え入れ(むかえいれ)てくれた、その3(にん)(だれ)だったのか知り(しり)たかったんです。メイン通り(どおり)には「ジャップ禁止(きんし)」「ジャップお断り(おことわり)」の看板(かんばん)()につきました。徴兵(ちょうへい)はまだ続い(つづい)ていました。戦争(せんそう)終わっ(おわっ)ていたんですが、まだ徴兵(ちょうへい)されて、若い(わかい)ハワイ出身(しゅっしん)()(せい)がオード軍事(ぐんじ)訓練(くんれん)センターで訓練(くんれん)受け(うけ)てました。仏教(ぶっきょう)(かい)寿司(すし)食べ(たべ)()たものです。そいつらは、メイン通り(どおり)にそんな看板(かんばん)見る(みる)と、その(みせ)入っ(はいっ)ては、はずして破い(やぶい)ていました。ワトソンビル出身(しゅっしん)帰還(きかん)(へい)は、そんなことはしません。静か(しずか)で「我慢(がまん)しろ」とか「ことを(あら)げるな」っていうふうでした。でもハワイの()(せい)(たち)は、我慢(がまん)しませんでしたよ。我々(われわれ)はそれが有難かっ(ありがたかっ)たものです。


10(さい)(とき)にアリゾナ(しゅう)のポストン収容(しゅうよう)(しょ)から開放(かいほう)され、カリフォルニア(しゅう)のワトソンビルに帰る(かえる)