ツールレイクから司法省(しほうしょう)管轄(かんかつ)抑留(よくりゅう)(しょ)送ら(おくら)れる親日(しんにち)()奉仕(ほうし)(だん)のメンバー (1945(ねん))
カリフォルニア(しゅう)
ツールレイク収容(しゅうよう)(しょ)
Courtesy of the National Archives and Records Administration
(だい)(よん)(しょう)不和(ふわ)

(だい)()()世界(せかい)大戦(たいせん)(ちゅう)強制(きょうせい)収容(しゅうよう)(しょ)への監禁(かんきん)政策(せいさく)(なか)日系(にっけい)人達(じんたち)は、それぞれ選択(せんたく)強い(しい)られました。 政府(せいふ)政策(せいさく)抗議(こうぎ)する人達(ひとたち)処罰(しょばつ)課せ(かせ)られました。1942(ねん)(はる)収容(しゅうよう)(しょ)開設(かいせつ)された直後(ちょくご)から、アメリカ政府(せいふ)は、アメリカに忠誠(ちゅうせい)(しん)があるとされた日系(にっけい)(じん)を、収容(しゅうよう)(しょ)から解放(かいほう)して軍事(ぐんじ)隔離(かくり)地区(ちく)から離れ(はなれ)地域(ちいき)落ち着か(おちつか)せるという施策(しさく)行っ(おこなっ)ていました。また、忠誠(ちゅうせい)(しん)があるとされた日系(にっけい)(じん)は、一時(いちじ)(てき)収容(しゅうよう)(しょ)から()て、戦争(せんそう)取ら(とら)れた農園(のうえん)労働(ろうどう)(しゃ)代わり(かわり)働く(はたらく)許可(きょか)得る(える)ことも可能(かのう)でした。人道(じんどう)主義(しゅぎ)(しゃ)宗教(しゅうきょう)団体(だんたい)後ろ(うしろ)(だて)となり、()(せい)大学生(だいがくせい)収容(しゅうよう)(しょ)から出し(だし)学校(がっこう)戻す(もどす)といった活動(かつどう)行なわ(おこなわ)れました。国家(こっか)安全(あんぜん)脅かす(おびやかす)人物(じんぶつ)ではないことを証明(しょうめい)し、地域(ちいき)住民(じゅうみん)反対(はんたい)がない地区(ちく)仕事(しごと)住居(じゅうきょ)確保(かくほ)すれば、収容(しゅうよう)(しょ)去る(さる)こともできました。この退出(たいしゅつ)政策(せいさく)は、若く(わかく)てアメリカ社会(しゃかい)になじんだ()(せい)にとって有利(ゆうり)であったために、収容(しゅうよう)(しょ)から()行く(いく)(もの)もあり、年老い(としおい)一世(いっせい)収容(しゅうよう)(しょ)残さ(のこさ)れるという結果(けっか)招き(まねき)ます。

収容(しゅうよう)(しょ)から出る(でる)ためのもうひとつの手段(しゅだん)は、アメリカ(ぐん)への入隊(にゅうたい)でした。(だい)442連隊(れんたい)戦闘(せんとう)(だん)日系(にっけい)兵士(へいし)だけで編成(へんせい)され、イタリアとフランスでの激しい(はげしい)戦闘(せんとう)活躍(かつやく)し、(のち)日系(にっけい)アメリカ(じん)一般(いっぱん)(てき)なイメージの向上(こうじょう)役立つ(やくだつ)ことになります。二世(にせい)()(べい)兵士(へいし)は、太平洋(たいへいよう)地域(ちいき)陸軍(りくぐん)情報(じょうほう)(きょく)にも従事(じゅうじ)していました。兵士(へいし)(たち)(なか)には、自分(じぶん)(たち)公民(こうみん)(けん)回復(かいふく)訴え(うったえ)徴兵(ちょうへい)忌避(きひ)(つみ)連邦(れんぽう)刑務所(けいむしょ)投獄(とうごく)された(もの)も300(にん)以上(いじょう)いました。

ツールレイクを出る奉仕団のメンバー1943(ねん)行わ(おこなわ)れた忠誠(ちゅうせい)登録(とうろく)は、日系(にっけい)コミュニティーに内部(ないぶ)亀裂(きれつ)をもたらし、それまでの人々(ひとびと)生活(せいかつ)大きく(おおきく)変え(かえ)ました。その(なか)含ま(ふくま)れていた「アメリカ(ぐん)参加(さんか)するか」と「日本(にほん)天皇(てんのう)への忠誠(ちゅうせい)破棄(はき)するか」という二つ(ふたつ)問い(とい)に「ノー」・「ノー」と答え(こたえ)(ひと)たちは、アメリカ政府(せいふ)()忠誠(ちゅうせい)とみなされたのです。そして、監視(かんし)()高い(たかい)隔離(かくり)センターであるカリフォルニア(しゅう)北部(ほくぶ)ツールレイク強制(きょうせい)収容(しゅうよう)(しょ)移さ(うつさ)れる結果(けっか)となりました。1944(ねん)(ふゆ)から1945(ねん)にかけ、この収容(しゅうよう)(しょ)では5500(にん)以上(いじょう)()(せい)がアメリカ市民(しみん)(けん)破棄(はき)し、戦争(せんそう)大きな(おおきな)打撃(だげき)をこうむった日本(にほん)へと国外(こくがい)追放(ついほう)される可能(かのう)(せい)直面(ちょくめん)することになったのです。日本(にほん)帰還(きかん)望む(のぞむ)一世(いっせい)(おや)への思い(おもい)や、生まれ(うまれ)(くに)であるアメリカに拒絶(きょぜつ)された怒り(いかり)影響(えいきょう)された決断(けつだん)でした。(だい)部分(ぶぶん)(ひと)たちは戦後(せんご)、アメリカ市民(しみん)(けん)(さい)取得(しゅとく)しています。

 

前の章へ前の章へ 次の章へ次の章へ

日本(にほん)へと発つ(たつ)本国(ほんごく)送還(そうかん)(しゃ)(1945(ねん)
ワシントン(しゅう)、シアトル
Courtesy of the National Archives and Records Administration

当時(とうじ)語る(かたる)インタビューから


収容(しゅうよう)(しょ)での生活(せいかつ)は、とても楽しい(たのしい)言える(いえる)ものではなかったので、どうにか()行き(いき)たいと思っ(おもっ)ていました。出所(しゅっしょ)許可(きょか)貰っ(もらっ)てシカゴに住ん(すん)でいる友達(ともだち)(なん)(にん)かいましてね。(わたし)もすぐに収容(しゅうよう)(しょ)()て、(なん)(ぜん)(にん)かの(ひと)たちと一緒(いっしょ)にシカゴへ行き(いき)ました。 大都市(だいとし)のほうが就職(しゅうしょく)(ぐち)がありました。戦時(せんじ)(ちゅう)人手(ひとで)不足(ぶそく)だったんです。そこにある会社(かいしゃ)は、日系(にっけい)アメリカ(じん)良く(よく)働い(はたらい)て、良心(りょうしん)(てき)だっていうんで喜ん(よろこん)雇っ(やとっ)てくれましたよ。ほとんどの仕事(しごと)は、ホテルのメードや、レストランの皿洗い(さらあらい)といった、サービス(ぎょう)下働き(したばたらき)でしたけれどね。でも、収容(しゅうよう)(しょ)()られただけで、嬉しかっ(うれしかっ)たんです。仕事(しごと)持っ(もっ)て、市民(しみん)としてまた自由(じゆう)味わえる(あじわえる)ことが嬉しく(うれしく)てね。ついに自由(じゆう)になったんだ、と思い(おもい)ました。

ジョージ・ヨシダ
1943(ねん)に21(さい)でアリゾナ(しゅう)のポストン収容(しゅうよう)(しょ)出る(でる)