第三章: 強制立ち退き
1942年2月、フランク・ルーズベルト大統領は、「軍事活動に重要とみなされる地域から,いかなる人物でも追放できる権限」を軍に与えます。当時のアメリカ陸軍省と西海岸の政治家達からの圧力によるものでした。指導者達は日系人のアメリカ国家に対する忠誠心の有無を疑問視し、「この地域からすべての日系人を排除することが軍事上必要である」と唱えました。大統領命令の告知が西海岸の州に張り出され、日本国籍の一世だけでなく、アメリカ国籍を持つ二世も含め、日本人の血を引く住民はすべて、移転所に出頭するようとの告知がなされました。準備のために与えられた期間は約一週間で、持参の許されたのは手に持てるだけの所持品でした。財産の借り手がついたり、近所の人に財産等の世話を頼めた幸運な人もいましたが、多くの家族が、農場、自宅、経営している事業を始め、全ての財産を失うか、二束三文で売り払うことになったのです。こうしてどこに連れていかれるのか、どれくらいの期間になるのか等知らされることなく、強制的な「避難」が行われました。政府の権力者は、アメリカ市民を追放することにはいささか抵抗があったので、二世に対しては「非外国人」という言い回しを使っていました。
二世の団体日系アメリカ市民連盟は、アメリカ国家に対する忠誠心をあらわすためこの強制立ち退きに従い、「避難」を支持するようにと呼びかけました。西海岸の北から南まで、多くの日系家族が自ら立ち退きに登録し、登録番号を付けられ、武装兵士の監視の下にバスや汽車による長い旅の末、「集合センター」へと送られました。「集合センター」は、会場となる空き地や競馬場に急ごしらえで建てられた仮施設で、有刺鉄線と監視塔に囲まれていました。12万人以上の日系の老若男女が、厳しい暑さと寒さの中、バラックのほったて小屋に粗末な食事、ついたてもないシャワーやトイレといった粗末な環境で暮らすことを余儀なくされたのです。それは、自由も誇りも奪われた生活でした。
何ヶ月か後、「集合センター」に留置されていた人々は、内陸の人里離れた常設強制収容所に移されました。収容所を運営するため、多くの人が低賃金で所内の仕事に就くことになりました。収容所での生活のわずかながらの改善のため、住居宿舎は改良が加えられたり、スポーツや娯楽が企画されたりし、物質的には最低の生活を送ることができていました。しかしながら、罪もなく囚われの身のなっていることによる心理的打撃は免れません。連邦政府は、このような日系人の拘留が、いずれは解消されるべきことを承知していました。そこで、誰が安全かを見定めたうえで収容所外に開放することとし、1943年に忠誠登録を行いました。忠誠登録は日系人の間に怒りと誤解を招き、将来への不安もあり、多くの家庭内で口論を引き起こし、家族を引き離す結果になってしまったのです。
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