第一章: 船出
1885年から1924年ごろ、多くの日本人がアメリカへと向かいました。明治維新の土地や税制の改革で、特に地方ではますます貧困に拍車がかかり、若い男性が、職を求めてアメリカへと出て行ったのです。これ以前にも1860年後半に、ハワイやカリフォルニア州に渡った先駆者もいました。彼らは日系移民といわれ、後に続く世代と区別して「一世」と呼ばれるようになります。夢や期待を抱いてアメリカに渡りましたが、彼らを迎えたものは、孤独な独身者の労務者生活と、過酷な労働条件でした。彼らの雇われ労働者としての職場は、ハワイのさとうきび農園、アメリカ本土の缶詰工場、材木製材所、鉄道建設、農場といったところです。その斡旋を行ったのは、当初は日本政府、後には民間の斡旋会社でした。アメリカ西海岸へ、個人で移民した人達も多くいました。土地の労働組合は、このような日本人労働者達に対して強い反感を抱きます。農場経営者達もまた、勤勉な一世達の存在に、自分達の地位を奪われるのでないかと脅威を感じるようになりました。そこで労働組合や農場経営者たちは、日本人を始めアジア人が土地を購入したり、借用することができないよう、外国人土地法を制定させたのです。当時の日本政府は、このような一世に向けられた差別的な措置に対し、抗議を申し入れています。
マスコミや、政治家、移民排斥主義団体
などは、「異(い)人種(じんしゅ)の『
黄禍』が、米国を侵略している。」と取り沙汰しました。しかし、実際には1910年の時点における日本からの移民数は、アメリカ太平洋側の人口のわずか1.5パーセントにしかすぎなかったのです。一世たちは差別的な連邦法によって、アメリカの市民権を取得することも許されず、選挙権もなく、政治的な力もない状況にありました。反日的な排斥同盟は、はさらに、日本からの移民を全面禁止することを政府に要請します。そして1908年、日米間で紳士協定が締結され、日本人労働者の米国への入国が禁止されることになりました。ただし、アメリカ在住の日本人の家族については、引き続き渡航が許可されました。
そこで、一世の男性達の中には、日本に一時帰国して結婚し、花嫁を連れてアメリカへと戻る者もいました。また、写真でしか見たことのない一世男子との結婚を決意し、アメリカへ渡って行った日本女性もいたのです。彼女達は「写真花嫁」と呼ばれ、何千人を越す女性達が、こうしてアメリカに渡ったといわれています。これら花嫁達の到着により、アメリカ生まれの新しい世代が現れ、「二世」と呼ばれるようになります。しかし、このような日系アメリカ人の人口構成の変化は、新たな反日感情を招く結果ともなりました。1924年、日本からの移民を禁止する移民法が制定され、ここで排斥主義者達の主張が認められることとなったのです。
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