コミュニティーピクニック
(1918)(ねん))
ワシントン(しゅう)、シアトル
Courtesy of Densho,
the Mamiya Family Collection
(だい)()(しょう)緊迫(きんぱく)

アメリカに渡っ(わたっ)日系(にっけい)移民(いみん)(いっ)(せい)(たち)は、白人(はくじん)住居(じゅうきょ)地区(ちく)では歓迎(かんげい)される存在(そんざい)ではなく、一部(いちぶ)地域(ちいき)集まっ(あつまっ)生活(せいかつ)するようになります。(だい)()()世界(せかい)大戦(たいせん)始まる(はじまる)までの(なん)(じゅう)(ねん)かの(あいだ)に、各地(かくち)日本人(にほんじん)のコミュニティーが形成(けいせい)されました。当時(とうじ)のアメリカ西海岸(にしかいがん)には、いくつもの日本(にほん)(まち)現れ(あらわれ)ています。一世(いっせい)(たち)日本(にほん)(まち)で、店舗(てんぽ)構え(かまえ)自営業(じえいぎょう)始め(はじめ)ました。銭湯(せんとう)日本語(にほんご)学校(がっこう)開か(ひらか)れ、寺院(じいん)教会(きょうかい)建て(たて)られました。白人(はくじん)(きゃく)向け(むけ)のレストラン、クリーニング(てん)やホコミュニティーピクニックテルなども(のき)並べる(ならべる)ようになりました。外国(がいこく)(じん)土地(とち)(ほう)土地(とち)所有(しょゆう)規制(きせい)されていましたが、その規制(きせい)回避(かいひ)しながら、多く(おおく)一世(いっせい)(たち)農場(のうじょう)牧場(ぼくじょう)苗木(なえぎ)(ゆき)などで成功(せいこう)収める(おさめる)ようになりました。出身(しゅっしん)地域(ちいき)ごとに県人(けんじん)(かい)組織(そしき)され、地域(ちいき)祝日(しゅくじつ)などに催し物(もよおしもの)主催(しゅさい)したり、経済(けいざい)(てき)援助(えんじょ)提供(ていきょう)したりする余裕(よゆう)もうまれました。一世(いっせい)(たち)はアメリカ社会(しゃかい)から疎外(そがい)され、偏見(へんけん)持た(もた)れていましたが、経済(けいざい)(てき)には安定(あんてい)し、お互い(おたがい)支え(ささえ)あって暮らし(くらし)ていたのです。アメリカで生まれ(うまれ)()(せい)(たち)成長(せいちょう)し、学業(がくぎょう)励み(はげみ)一世(いっせい)両親(りょうしん)よりはアメリカ社会(しゃかい)溶け(とけ)込める(こめる)のではないかという希望(きぼう)持っ(もっ)暮らし(くらし)ていました。

しかし一世(いっせい)(たち)成功(せいこう)は、また周囲(しゅうい)のアメリカ(じん)(たち)反日(はんにち)感情(かんじょう)恐れ(おそれ)招く(まねく) ことにもなるのです。1930 年代(ねんだい)日本(にほん)による中国(ちゅうごく)への侵略(しんりゃく)は、アメリカ国内(こくない)日本人(にほんじん)に対する(にたいする)不信(ふしん)(かん)高め(たかめ)両国(りょうこく)(かん)緊張(きんちょう)高まり(たかまり)は、日本人(にほんじん)()引く(ひく)人達(ひとたち)への反感(はんかん)強め(つよめ)ます。信用(しんよう)のおけない人種(じんしゅ)だという先入観(せんにゅうかん)加え(くわえ)危険(きけん)敵国(てきこく)(じん)としてのイメージも報道(ほうどう)されるようになりました。反日(はんにち)運動(うんどう)()は、アメリカ在住(ざいじゅう)日系(にっけい)(じん)を、昭和(しょうわ)天皇(てんのう)の「秘密(ひみつ)部隊(ぶたい)」だと責め立て(せめたて)ました。

連邦(れんぽう)政府(せいふ)は、「戦争(せんそう)勃発(ぼっぱつ)(さい)危険(きけん)(せい)のある人物(じんぶつ)(たち)」についての情報(じょうほう)報告(ほうこく)をまとめ、その(なか)日系(にっけい)移民(いみん)(いっ)(せい)()(せい)含み(ふくみ)ました。1941(ねん)12(がつ) 7日(なのか)真珠湾(しんじゅわん)攻撃(こうげき)により、アメリカ国民(こくみん)である()(せい)含め(ふくめ)、すべての日本(にほん)(けい)人々(ひとびと)猜疑(さいぎ)不信(ふしん)()()られるようになります。その(すう)週間(しゅうかん)()には、連邦(れんぽう)捜査(そうさ)(きょく)が2000(にん)以上(いじょう)及ぶ(およぶ)一世(いっせい)指導(しどう)(しゃ)(てき)存在(そんざい)逮捕(たいほ)し、在住(ざいじゅう)敵国(てきこく)(じん)抑留(よくりゅう)する「抑留(よくりゅう)(しょ)」に送り(おくり)ました。日系(にっけい)地区(ちく)では規制(きせい)布か(しか)れ、住居(じゅうきょ)事務所(じむしょ)家宅(かたく)捜査(そうさ)財産(ざいさん)没収(ぼっしゅう)夜間(やかん)外出(がいしゅつ)禁止(きんし)(れい)旅行(りょこう)禁止(きんし)銀行(ぎんこう)口座(こうざ)凍結(とうけつ)などが行わ(おこなわ)れたのです。新聞(しんぶん)には、西海岸(にしかいがん)住む(すむ)日系(にっけい)人達(じんたち)がスパイ行為(こうい)妨害(ぼうがい)行為(こうい)行っ(おこなっ)ているという虚偽(きょぎ)政府(せいふ)報告(ほうこく)掲載(けいさい)され、恐怖(きょうふ)陥っ(おちいっ)一般(いっぱん)市民(しみん)(たち)は、日系(にっけい)(じん)全体(ぜんたい)監禁(かんきん)するべきだと要求(ようきゅう)始める(はじめる)までに至り(いたり)ました。

 

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公園(こうえん)での一家(いっか)(1920(ねん)
ワシントン(しゅう)、シアトル
Courtesy of Densho, the Murakami Family Collection

当時(とうじ)語る(かたる)インタビューから


(1941(ねん))12(がつ) 7日(なのか)日曜日(にちようび)のことは、忘れ(わすれ)られませんね。(真珠湾(しんじゅわん)攻撃(こうげき)は) 最悪(さいあく)のニュースでしたよ。これから(なに)良く(よく)ないことが起こる(おこる) だろうと 感じ(かんじ)ましたね。決定的(けっていてき)打撃(だげき)でした。それまでの偏見(へんけん)差別(さべつ)加え(くわえ)て、日本(にほん)のコミュニティーにとって最悪(さいあく)出来事(できごと)です。(みな)それだけは分かっ(わかっ)ていました。(いえ)帰る(かえる)(みち)で、これ以上(いじょう)いったいどんなことが起こる(おこる)んだと思い(おもい)ましたよ。明日(あした)月曜日(げつようび)学校(がっこう)行く(いく)。でも、(なに)のために学校(がっこう)行く(いく)んだ? 戦争(せんそう)始まっ(はじまっ)てしまって、これからどんなひどいことが待っ(まっ)てるんだろう? この世(このよ)終わり(おわり)だと思い(おもい)ましたよ。とにかく、月曜日(げつようび)(あさ)には、いつものように学校(がっこう)行き(いき)ました。図書館(としょかん)行き(いき)ましてね。ひどく静か(しずか)でした。(みな)()自分(じぶん)向い(むい)ているのを感じる(かんじる)んです。それくらい、自分(じぶん)日本人(にほんじん)(かお)に対して(にたいして)自意識(じいしき)過剰(かじょう)になっていたんですね。真珠湾(しんじゅわん)攻撃(こうげき)は、それは打撃(だげき)(てき)なものでした。もう、我々(われわれ)のコミュニティーも終わり(おわり)だと思い(おもい)ましたね。学校(がっこう)行っ(いっ)て、(なに)になるんだと思っ(おもっ)たものです。もう将来(しょうらい)も、チャンスもなくなってしまったんですからね。その痛み(いたみ)は、(みな)分かり(わかり)あっていたと思い(おもい)ます。その精神(せいしん)(てき)苦痛(くつう)言う(いう)ものをね。でもそんな気持ち(きもち)(うち)秘め(ひめ)ていました。父親(ちちおや)母親(ははおや)にも、これからどうなるんだと聞い(きい)たりしませんでしたね。ただ、これから厳しく(きびしく)なると言う(いう)ことだけは分かっ(わかっ)ていました。その後(そのご)状況(じょうきょう)が、どんなにひどいものだったかはご存知(ごぞんじ)でしょう。

ヒロ・ニシムラ
1941(ねん)12(がつ)当時(とうじ)ワシントン州立(しゅうりつ)大学(だいがく)生徒(せいと)だった()(せい)