敵国人抑留所

フェンスの中から外を見る一世の収容者達(1943年)モンタナ州、フォートミズーラの司法省抑留 Courtesy of the University of Washington Libraries

真珠湾攻撃後わずか数時間の間に、アメリカ連邦捜査局と移民局の係員は、家々を廻り、その何年か前に作成された「容疑者」のリストに載せられていた一世の男性を逮捕していきました。連行された大部分の人達は、日本語教師、新聞編集者、仏教僧など、地域社会や企業の指導者達です。こうして逮捕されたドイツ人、イタリア人、そして日本人達は、敵国外国人抑留所でとおりいっぺんの事情聴取を受けたました。このような抑留所は、後に一世と二世が拘留されることになる大規模な強制収容所とは違い、司法省や陸軍によって運営されているものでした。一世男性は事情聴取の結果「釈放」された場合も、自由の身になれるわけではなく、他の拘留所に送られたのです。

第二次世界大戦が終わるまでに、アメリカ政府は約11,500人のドイツ人と2,700人のイタリア人を抑留しました。約5,300人の日系人が、戦争開始の年に逮捕、拘留され、そのうち2,300人は、後に「釈放」され、少なくとも家族と共に抑留されることになります。しかしながら、大多数は戦時中を通して分かれて拘留され、戦後18か月に至るまで拘束が続いた者もありました。その家族たちは、長期の離別により、なおさらの苦難を受けることになります。

主な在住外国人抑留所
テキサス州、クリスタルシティー
ノースダコタ州、フォートリンカーン
モンタナ州、フォートミズーラ
ニューメキシコ州、フォートスタントン
テキサス州、ケネディー
アイダホ州、クースキア
ニューメキシコ州、ローズバーグ
ニューメキシコ州、オールドレイトンレンチ
ハワイ州、サンドアイランド
ニューメキシコ州、サンタフェ
テキサス州、シーゴビル

詳細は伝承の Site of Shame をご参照下さい。

 

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当時を語るインタビューから

抑留所で会った)医者に「どうしてここにいるんですか?」と聞いたら、いきなり来て連れて来られたということでした。指導者的な立場にある人であろうということは分かりましたね。そんな感じがしたんです。ハワイから来た人達は「なんで引っ張られたのかわからない。何もしてないのに。」って言ってました。それだけしか知りません。どうやってあの人達が選ばれたかは、私の想像の域ではありませんね。何人かの人は福岡県人会とかの団体の会長だったり、和歌山県人会の会長だったりしましたけどね。でもそれ以外は、どうやって選んだのか分かりません。一人の人は「家に帰ってから、どうすればいいんだ?」って言ってました。「家はどこなんですか?」「サンタバーバラの家に帰りたいよ。女房がいるんだ。」「奥さんがいらっしゃるんですか?」「ああ。それに子供も二人いる。」ということでした。「どうしてここに?」と訊ねると、分からない、と話していましたね。なぜ連れてこられたか見当もつかない。だた働いて、家族のために住む場所を探していただけなのに、っていうことでした。「ああ、どうやってまた元通りの生活に戻ればいいんだ?」って嘆いてましたよ。

ノーマン・ヒロセ

アメリカの市民権を破棄した後、ニューメキシコ州のサンタフェにある司法省の抑留所に連行された二世