地図で巡る収容所と集合センター

臨時集合センター map_center_icon

1942年春、大統領令9066号の発布をうけて、戦時市民管理局(Wartime Civil Control Administration-WCCA)は、自宅からの立ち退きを命じられた日本人の血を引く人達を収容するため、急遽臨時の“集合センター”を設置しました。カリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州、アリゾナ州にできたセンターの場所は、競馬場、野外催し物会場、日雇い労務者用キャンプ、放置されていた市民保全部隊のキャンプ、材木処理場、家畜場などでした。周囲には有刺鉄線のフェンスが組まれ、武装した軍部警察の見張りが配置されました。収容者は、家畜小屋やバラック小屋に入れられ、洗面所も食堂も共同です。バラック小屋は訓練後の兵士のため、短期滞在用に作られたもので、子供や年寄のいる家族の住めるようなものではありません。プライバシーは皆無と言えるものでした。大部分の家族は、天井にも届かないような板で隣の“アパート”と仕切られた、6メートル四方の部屋に入れられました。生活状況は、混乱に満ち荒れ果てたものでした。食糧不足と劣悪な衛生状態は日常のこととなり、込み合った環境、見通しのつかない将来、ストレスは集合センターに緊迫感を張り巡らせます。打ちひしがれた収容者達は、そのような中でも生活環境を改良しようと努めました。材木の切れ端で家具を作り、催し物を企画し、庭を作りました。コック、整備士、教師、医師、事務員、警察官として働くこともします。月給は非技術職が8ドル、技術職が12ドル、専門職が16ドルでした。その後、月給は非技術職が12ドル、技術職が16ドル、専門職が19ドルに上げられます。6カ月の間に、収容者達は集合センターから内陸部の強制収容所に送られていきました。

強制収容所強制収容所

戦時転住局 (War Relocation AuthorityWRA) の指揮の下に、10か所の強制収容所が設置されました。その多くは連邦政府管轄の砂漠や湿地帯などの、人里離れて隔離された場所です。1942年の6月から10月の間に、収容者たちは汽車で“集合センター”からより規模の大きい収容所に移されます。約12万人を収容するこれらの強制収容所は、居住施設に加え、病院、郵便局、学校、倉庫、事務所、工場を備え、独立したコミュニティーとして設計されたものでした。収容所の周囲には、広大な収容者の耕作用の区画がしかれ、そこに設置された見張り台と有刺鉄線が収容所を包囲します。収容所ごとに差はあったものの、基本的には碁盤の目の構造で、各ブロックには10件から14件の防水タール紙で覆われたバラック小屋、食堂、洗面所、洗濯場、リクレーションホールがあります。家具は裸電球一個と、軍用簡易ベッド、石炭、ガスまたは薪ストーブだけでした。抑留期間中、収容者たちは家具や庭を作りました。戦時転住局は新聞、ある程度の自治、スポーツリーグ、催し物などで、どうにか普通に近い生活を打ち立てようと試みます。しかしながら、監禁生活、単調な日々、厳しい生活環境は、収容所の賛成派と反対派、そして権威を失った一世とアメリカ生まれの二世の子供達との間の緊張感を高めました。いくつかの収容所では争いが暴力行為に発展し、マンザナー収容所では銃殺者がでるまでに至ります。戦時転住局は忠実だと認めた者に対して、徐々に通学や就職の為収容所を出ることを許可していきました。最後の収容所は1946年の3月に閉鎖されました。