インタビューで知る日系アメリカ人

人種差別の中で成長するコミュニティー

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第二次世界大戦前の日系社会

アメリカ本土とハワイの日系アメリカ人のルーツは、1885年に日本からハワイ王国に集団移民した労働者達に始まる。その大部分は、サトウキビ農園の雇われ労務者として海を渡った人達だった。農園の厳しい労働条件のため、多くの人は他に雇用を求めてアメリカ本土に渡り、鉄道工事、製材所、缶詰工場、農場などで働くようになった。

敵軍と同じ顔

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真珠湾攻撃後の波紋

第二次世界大戦の10年近く前から、アメリカ政府各機関は、日本との戦争の可能性をふまえ、日系アメリカ人社会の調査を行っていた。両国間で戦争が始まったとしても、日系人社会はアメリカに脅威を与えるものではないというのが、その一般的見解だった。一方、開戦になった場合の逮捕者候補を揚げた管理拘留リストも作成された。このリストは、真珠湾攻撃数時間後に、アメリカ政府が“敵国外国人”とみなした日系人達を一斉検挙するのに利用されることになる。

アメリカの強制収容所

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第二次世界大戦中の日系人強制収容

追放された西海岸地域の日系アメリカ人の大部分は、まず始めに、軍の運営する臨時の“集合センター”と呼ばれる施設に送られた。集合センターには、立ち退きを強いられた日系アメリカ人の居住地域の近辺の、野外遊技場や競馬場などの既成の施設があてられた。多くの拘留者が、2,3ヶ月の間、馬小屋の中で干草の上に眠るといった生活を余儀なくされた。

日系アメリカ人の反応

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対戦中の強制収容に対する日系社会の反応

日系アメリカ人のほとんどが軍の立ち退き命令に従った中、少数の人達は立ち退き政策に批判を投じた。ゴードン・ヒラバヤシ、フレッド・コレマツ、ミノル・ヤスイの3名の訴訟は、最高裁判所まで行って審議されたが、最終的にはこの人種に基づいた排除は合法であるという判決が言渡された。

過ちの是正

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第二次世界大戦後の日系社会の再建

アメリカ政府に“忠実”と判断された収容者の約3分の2は、1944年末までに強制収容所を後にしたが、1945年まで西海岸地域に戻ることは許可されなかった。帰還した人達は、受け入れに反対する地元住人達から冷遇を受けた。終戦を迎え、各収容所は(ツールレイク収容所を除いて)1945年末までに閉鎖された。多くの収容者は収容所を追われ、援助もなしに3年前に去った土地に送り返された。