賠償金の小切手を受け取る一世の男性(1990年) ワシントン州、シアトル Courtesy of Densho, the Akio Yanagihara Collection
賠償金運動

1988年8月10日、ロナルド・レーガン大統領は1988年市民自由法に署名し、公式謝罪と12万人を監禁した第二次世界大戦強制収容所の存命者全員への、2万ドルの支払いを承認しました。この法案成立は、1970年に始り、時に論争を巻き起こした賠償金運動の総決算と言えます。ことを起こしたくないと二の足を踏む多くの二世達を説得し、日系の活動家と何人かの日系以外の人達が協力して、一世と二世の強制立ち退きと収容は不当であったとの認識と、それに対する支払いのために、努力を共にしました。1943年に最高裁判所が強制収容所の合法性を認めた際、連邦検察官が証拠を偽造したことをつきとめた弁護士チームも、この運動を援助しました。連邦議会、戦時転住及び抑留に関する委員会(the Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians、略してCWRIC)が、謝罪と支払いを勧告する前に、全国からの元収容者からの証言を公聴しました。何百人という人々が議会に働きかけると同時に、二世の議員達が、議会を通して賠償金法案の通過に力を注いだのです。1990年10月、最初の賠償金が、第二次世界大戦強制収容所の最も老齢の生存者達に支払われました。

 

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賠償金の小切手を受け取る一世の男性(1990年)
ワシントン州、シアトル
Courtesy of Densho, the Akio Yanagihara Collection

当時を語るインタビューから


(賠償金運動の)まず初めは、自分達自身のコミュニティーの中での教育からでしたね。例えば、二世の人達に向けては、日本街の真ん中のファースト通りにテーブルを設置するんです。かなり大変なことでしたよ。二世のおばさん達が来て「何やってるの?」って聞くんです。チラシも沢山用意していましてね。二世の人達はそれを見て、「こんなこと始めるのは、やめにしてもらいたいね。またお役所からいろいろ言われるのはごめんだよ。もう沢山だ。収容所に入れられまでしたんだからね。賠償金だって?とんでもないよ。」って言うわけです。もうまるで敵意を持たれましたね。でも粘り強く頑張ったんです。毎週末テーブルを出して、いろいろな二世の人達と話しました。「こっちへ来て、一緒にここに座って下さいよ。他の二世の人たちにも話してみて下さい。」ってね。二世の人達に、心を開いて、その時の体験を話してもらいたかったんです。そしたらね、その話をすればするほど、二世の人達は怒りを覚えてきてね。そのうち、「ほんとうだ。何も恥ずかしがることなんかないんだ。気まずい思いなんかすることない。怖がることなんかない。」って言うようになったんです。子供の世代の人達のことも心配してたんですけど、嫌われるならそれでもいい。自分達がどこから来たか、その歴史を知らなくてはいけませんからね。我々のしてることが気に入らなくても、そのうちに分かってくれるさと思っていました。ほんとうにそうでした。大学のキャンパスにも行って、そこの生徒達にずいぶん話かけたんです。皆「親達がそんな経験をしたとは知らなかった。それはひどい。」と言う反応でした。学生がこのことにオープンになればなるほど、親達ももっと活動的に運動することにオープンになっていきました。ほんとに、時間がかかりましたけれどね。いろんなコミュニティーの集会に行って、話しをしないといけませんでした。しばらくしてからは、ましになりましたが、初めのうちは「そんな話はするな。聞きたくもない。」と言うものでしたね。

リリアン・ナカノ

アーカンサス州ジェロームに収容され、後にロサンゼルスで賠償金運動に参加する