日系人家族の自宅に書かれた人種差別的な落書き「ジャップお断り」(1940年代) ワシントン州、シアトル Courtesy of the Museum of History & Industry
再出発

1945年の初めから、アメリカ西海岸地域は、日系人の帰還の受け入れを始めます。大部分は、人種差別からくる敵意や、自警の脅迫など周囲の闘争的な態度にもかかわらず、自分達の土地へと帰って行きました。多くの人が、教会の地下や、近所の人達に預けていった所持品が姿を消し、自宅や農園は略奪され、放置されていたり、法的権利もない人達に横取りされていたりする状態を目の当たりにすることになるのです。中には、信用のおける知り合いが留守を守ってくれていたお陰で、また生活を築きなおせた幸運な人もいました。しかしながら、住宅が不足しているうえ、収入もない多くの元収容者は、寺や日本語学校に設置された粗末なホステルでの共同生活を余儀なくされたのです。職を見つけるのも、特に年を取ってしまった一世には困難で、多くの人は経済的に自立していた生活から、過酷な下働きの暮らしへと落ちて行きました。多くの日系人は、収容所に監禁されていたことも痛ましいものながら、(政府から支給されたわずか25ドルと片道切符を手に)開放後、いちからやり直すことは、それ以上に困難なものだったと語ります。アメリカ中西部や東海岸の新しい土地では、差別を受けた人もいれば、西海岸地域を離れ、人々はアジア系の顔を受け入れてくれ安かったと言う人もあり、元収容者達は複雑な歓迎を受けることになります。

 

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日系人家族の自宅に書かれた人種差別的な落書き「ジャップお断り」(1940年代)
ワシントン州、シアトル
Courtesy of the Museum of History & Industry

当時を語るインタビューから


(クエーカー教の)フレンズ奉仕団が、大きな煉瓦造りの立派な家を(私達のために)見つけてくれました。道に面した部屋には、大きな窓がありましてね。ある夜、土地の不動産業者が来て、大きな石を投げ入れてその窓を割ったんです。それから、酒場に行ってこの家から私達を追い出してやるといきまいていました。カトリックの神父さんがその話を聞いて、知らせてくれたんです。その話を友達にしたら、その夜、皆で家に来てくれて、居間に座り込んだんです。皆白人の友達でした。その男が酒場から仲間を集めて、外の道をこちらに向って来る声が聞こえました。でもそいつらが戸口まで来た時、私達の友達の一人がドアを開けたんです。彼はそいつを招き入れて、「話合いましょう。」と言いました。もちろん、向こうはそんなことしに来たわけじゃありません。それでも入って来て、あたりを見回しました。口数は少なくて、ただそこに私達がいるのは気に入らない、外にはそれに同感する者が沢山いると言ったくらいでしたね。ぶつぶつ文句は言ってましたけど、皆帰って行きました。

ノブ・スズキ

アイダホ州ミニドカ収容所から開放され、ワシントン州スポケーンに居を構え、教会と市民ボランティアに活動的に参加する