収容所から移される隔離者(1945年) カリフォルニア州、ツールレイク収容所 Courtesy of the National Archives and Records Administration
ツールレイク隔離センター

カリフォルニア州北部のツールレイク強制収容所は、戦時転住局によって運営されていた10ヶ所ある収容所の一つとして開設されました。1943年に、欠陥だらけだった忠誠登録の答えに基づいて、合衆国政府が不忠誠とした人達のための、隔離センターへと変更されることになるのです。1943年9月に、ツールレイクにいた日系人で、政府によって忠誠心があるとされた人達は他の収容所へと転出し、他の強制収容所からは、不忠誠だとされた人達が入所して来ました。また、既にツールレイクに収容され、再び移動するより留まることを選択した人達も6千人以上いました。ここでは、収容所以外の場所に移転することは、全員禁止されていました。およそ千人の警備員が導入され、二重のフェンスが建てられ、軍用戦車が収容所を取り囲んでいました。強制捜査は1年に及び続行されました。収容数は最高で1万9千人に膨れ上がり、密集状態は収容所内の緊張を高めます。1943年10月、住民と管理関係者の間での口論の後、戒厳令が布かれ、これは外部の報道機関によって暴動にまつりあげられてしまいます。管理体制に反抗的だとの疑惑を持たれた男性達は、法的手続きも踏まず、柵内に閉じ込められました。1944年の春には、収容所管理者は、すべての集会を禁止し、学校、職場、スポーツ、リクレーションが閉鎖となります。ツールレイクでは、親日的な団体や、日本に帰国を希望する親からの圧力で、5千人以上の二世がアメリカの市民権を破棄することになりました。この隔離センターは、1946年3月に閉鎖されます。

 

前のトピックへ前のトピックへ

収容所から移される隔離者(1945年)
カリフォルニア州、ツールレイク収容所
Courtesy of the National Archives and Records Administration

当時を語るインタビューから


(収容所内の)農場でのストライキが、問題の一部でしたね。作物は植えられていたんですが、誰も収穫しない。養豚所も閉鎖された。食糧事情は悪くなる一方でした。それはもうひどくて、ある時なんか、各食堂に、カリフラワーが一箱ずつ届けられただけなんてこともありましたよ。300人用に一箱ですよ。それで花の部分を切って、葉っぱのところは残しておくんですね。葉っぱで何をしようっていうのか? 考えたもので、それをきざんで、漬物を作ったんです。もう食べ物を要求して、大騒ぎになりました。少しずつ何か運ばれてくるんですが、とにかく皆を食べさせるために、何とかしないといけない。管理側は我々にちゃんとした食事を与えてないんですから、皆怒って、それで奉仕団(即時帰国奉仕団、親日派の団体)の人達がもっと力を持つようになったんですよ。「ほら、あいつらは戦わないだろ? 管理側と戦わない。だから、こんな扱いを受けるんだよ。」と言うふうにね。そこで力をつけていったんです。管理側がますます弱くなる、陸軍はひどい食事を送ってくるで、彼らにしてみれば、もっとたくさんの人をグループに引き入れる武器が揃ったわけです。それをうまく利用しましたね。だから短期間の間に、あれだけたくさんの人を引き入れられんたんです。それから、管理側が2百、3百人の奉仕団員を捕まえて、4百、5百人にもなりました。皆追い出して、収容所を落ち着けようというわけです。団員達は柵に入れられて、それからビスマルクに送られて、それからニューメキシコのクリスタルシティーでしたね。グループ全体を分裂させて、国内中に散らばしたんです。それで問題解決ってわけです。

ジミー・ヤマイチ

ツールレイク隔離センターの道徳的徴兵拒否者