二世の高校生達(1942年) アーカンサス州、ローワー収容所 Courtesy of the National Archives and Records Administration
学生の解放

1942年の時点で、二世のうち最も多かった年齢は21歳でした。アメリカ西海岸から立ち退き命令が出たとき、何千人もの二世は大学に通っていたのです。この強制立ち退きに反対して、学生を軍事排除地域外の学校に移そうした大学もありましたが、必要な手続きを行うには時間がありませんでした。強制収容所に入れられてしまうと、大学生達は、そこに取り残されてしまいました。収容所には小学校と高校はありましたが、高等教育機関への道は閉ざされていたのです。人道主義や宗教団体は、支援活動を組織し、二世の学生達を収容所から出し、大学での勉学を始めたり、再開したりできるよう資金援助を行っていました。特にアメリカフレンズ奉仕団(The American Friends Service Committee、クエーカーとしても知られる)は、「全米日系アメリカ学生転住審議会」(National Japanese American Student Relocation Council、略してNJASRC)の設立を援助し、軍事排除地域外の約600校の大学に、4千人あまりの二世を入学させました。NJASRCは二世が収容所を出るための膨大な事務手続きを手助けし、周囲の地域住民の反対を抑えて日系の学生を受け入れるよう大学を説得し、奨学金と生活費を提供するために資金を募りました。このような二世の学生達は、日系人を代表する者として見られ、優秀な成績をあげなければならないという、大きなプレッシャーを感じることになります。最近になって、カリフォルニア州を初め、他の州でも、何校かの大学が強制収容により勉学を中断された二世達に名誉学位を手渡しました。

 

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二世の高校生達(1942年)
アーカンサス州、ローワー収容所
Courtesy of the National Archives and Records Administration

当時を語るインタビューから


私は(収容所を出た後)ソルトレイクシティーに行って、ユタ大学に行くはずでした。書類を全部揃えて、収容所を出るのに必要なのは、住む所を見つけることだけだったんです。たくさんの家庭が家を開放して、食事と部屋を提供してくれました。それで、あるお家に住むことになっったんですが、ここの人達は、私を学校に通わせるつもりなんか全くなかったんです。だた子守とお手伝いさんが欲しかっただけだったんですね。私が「学校に登録に行かないといけないんですけど。」と言うと、「あらあら、夕方しかいけないわよ。昼間は、食事代と部屋代をまかなうために働いてもらわないと。」と言うんです。学校に行くと、「そのスケジュールでは出席できません。」と言われました。私が「でも学校に行きたいんです。」と言うと、「では、実業学校はどうですか。」というとこになって、それでLDSビジネスカレッジに行ったんです。兄が軍の休暇でソルトレイクシティーに来た時、この家の女主人は「ジャップの兵隊なんか家には入れたくないね。」と言うんです。私は、「兄はアメリカ軍兵士なのよ!」と言っても、だめだと言うんですね。それに、私宛の手紙が自分の家に送られてくるのも嫌って、手紙は姉の所に送ってもらっていました。姉もある家庭で働くために、収容所を出ていたんです。それで、兄が来て、「もうこんな所にいるんじゃない。」と言いました。女主人の方は、「だったら、収容所に送り返してやるわ。」と言うんですが、兄は「いや、僕が戦時転住局の事務所に連れて行く。」と言いましてね。姉が住んでいた家庭の人が、他の場所が見つかるまでと、私に部屋を用意してくれました。それで、他に住む場所を見つけて、学校に通い続けたんです。

アキ・クロセ

大学に通うためアイダホ州ミニドカの強制収容所をあとにし、シアトルで教師、人権擁護活動家として尊敬を集める