収容所監視塔(1944年) コロラド州、グラナダ抑留所 Courtesy of Densho, the George Ochikubo Collection
強制収容所

1942年から1946年まで、アメリカ政府は、7万人のアメリカ国民(二世)を含む、12万人の日本人の血を引く民間人を拘留するため、「転住センター」と呼ばれる10箇所の強制収容所を運営していました。アメリカ西部と中部にある砂漠と沼地の過酷な設置条件に置かれ、これらの収容所は、小規模な人工の町のように運営されていました。収容者達は所内の農場、調理場、学校、病院、リクレーションホール、新聞出版所などで働き、その管理にもあたっていたのです。それぞれの家族は、一部屋だけの粗末なバラック小屋の住居に住み、混雑した食堂で食事を取り、共同のトイレとシャワー施設を使用していました。運営を担当していた戦時転住局は、通常生活の装いを作り出そうとしましたが、収容者達はたとえ映画を見ようが、ダンスパーティーを開こうが、野球の試合を観戦しようが、鉄柵と武装監視員に囲まれていることは忘れません。この合衆国収容所で、最低限の生活はまかなえたものの、一生かかって積み上げてきた業績を失った老齢者や、学業やキャリアを中断された若者、監禁されて幼年期を送った子供達でさえ、その長期的な心理的、精神的を打撃をこうむりました。全員その人種のために危険者扱いされ、不忠誠だとされたこの国での将来に不安を感じ、家族内や世代間では言い争いが起こり、それは人々の生涯に大きな影響を与えるような結果を招きました。

戦時転住局強制収容所
アリゾナ州、ギラリバー
コロラド州、グラナダ(アマチ)
ワイオミング州、ハートマウンテン
アーカンサス州、ジェローム
カリフォルニア州、マンザナー
アイダホ州、ミニドカ
アリゾナ州、ポストン
アーカンサス州、ローワー
ユタ州、トパーズ
カリフォルニア州、ツールレイク

 

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収容所監視塔(1944年)
コロラド州、グラナダ抑留所
Courtesy of Densho, the George Ochikubo Collection

当時を語るインタビューから


マンザナー収容所は、埃っぽくて暑かったのを覚えています。小川に遊びに行きましたね。鉄柵のすぐ内側にあって、(アメリカの)兵士が銃を持って、監視塔の上にいたのが見えたのを覚えています。野球の試合もありましたし、野外映画もありましたね。土の上に座って、外で映画を見たことがなかったので、ちょっとわくわくしました。弟のフランクの世話をするのが、私の仕事になっていまして。それで、人ごみの中で土の上に座っていたんですけど、強い砂嵐が来て、皆立ち上がって帰ってしまったんです。皆自分のバラックに帰るのに右往左往で、大勢の人に囲まれてしまって、フランクの手を握ったまま、怖い思いをしたのを覚えています。今でも、大勢の人がいる所が嫌いなんですよ。押し合いへし合いになると、その時のことを思い出してしまうんです。さそりも怖かったですね。ミニドカは、冬場になるとすごく寒くなるんです。私は妹のフランシスを学校まで送って、また迎えに行かないといけませんでした。それにフランクの面倒もみないといけなくって。どこかからの帰り、雨が降ってきて、道が泥だらけになったんです。フランクは泥にはまってしまって、ひっぱり出せなくなってしまいました。パニックになりましたね。天候のことは一番よく覚えています。すごく暑くて、すごく寒かったんです。でもそれ以外は、どこでも子供がするように、私達も遊んでました。それから10年経って、家に戻って来て、そこで始めて差別の経験していやな思いをしました。その時はもう思春期にかかっていましたからね。その影響は、小学生の時より大きいですね。

リリー・コダマ

7歳の時にワシントン州のベンブリッジ島からカリフォルニア州のマンザナー収容所に立ち退かされ、アイダホ州のミニドカ収容所に移された