集団立ち退きの際の母子(1942年) ワシントン州、ベンブリッジ島 Courtesy of the Museum of History & Industry
強制立ち退き

1942年の初頭、アメリカ一般市民は、日本軍によるアメリカ本土侵略への危機感をつのらせ、西海岸の政治家達は、日本人の血を引く住民全員を立ち退きさせることを主張しました。真珠湾攻撃に対する怒りは、日本人の顔をしてる者は誰でも敵国日本に同調するだろうという、人種に基づいた憶測を招きます。これに一世の経済的競争力を排除しようという思惑が加わり、アメリカ在住の日本人と、そのアメリカ市民である子供達を含めた12万人を、全員追放しようという世論の圧力は高まりました。連邦捜査局と海軍情報局は、集団追放の必要性を認めず、司法省は立ち退きは基本的人権の蹂躙にあたるとしました。それにもかかわらず、フランクリン・ルーズベルト大統領は、アメリカ国民であるなしにかかわらず、日本に民族的つながりを持つ者達は、遺伝的に信用のおけない存在であるとする陸軍高官に耳を傾けたのです。1942年2月19日、ルーズベルト大統領は、大統領令第9066号に署名し、陸軍に軍事排除地区を指定し、「すべて、どのような人物でも」危険と認められれば、立ち退きを強要できる権限を与えました。この大統領令は、日本人の血を引いた人達に適応されましたが、ドイツやイタリア系の人達には使われなかったのです。ハワイ州に住む15万8千人の日系人達も、集団立ち退きを強いられていません。アメリカ西部の各州からのこのような集団「避難」に対して、反対の声はほどんど聞かれませんでした。1942年3月、途方にくれる日系人達は、武装した兵士に伴われ、どこへ行くかも知らされないまま、自宅や経営する事業からの立ち退きが始まったのです。

 

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集団立ち退きの際の母子(1942年)
ワシントン州、ベンブリッジ島
Courtesy of the Museum of History & Industry

当時を語るインタビューから


(立ち退きの日)私達は、大型の軍用トラックが迎えに来るのを、待っていなければいけませんでした。かなりの大家族だったんですよ。父はいませんでしたから、7人家族でした。皆スーツケースを持っていました。他にも、日本人家族がたくさんいて、それぞれ荷物を持っていましたね。そこで、皆でフェリーに乗るために待っていたんです。トラックが来たら、出てきたのは銃を持った兵隊達で、そこに立って私達を見張ってるんです。それも恐ろしかったですね。とにかく、私達が何か悪いことでもしたみたいに、沢山の兵士に囲まれて、そこに立ってたんですからね。知っている人の顔を見たくなかったですよ。出て行かなくてはいけないということが、恥ずかしかったんです。フェリーが着いてシアトルに下りた時、今度はすぐ横の線路にとまっている汽車へと歩かされました。たくさんの人が、高架から私達を見下ろしていたのを覚えています。皆、私達がどこかへ行くのを見物しに来ていたんですよ。まるで奇妙な動物にでもなったような気持ちでした。いつ帰ってくるのか、帰って来れるのか、どこに行くのかもさえ分からず、とても恐ろしい経験でしたね。

マツエ・ワタナベ

ワシントン州のベンブリッジ島からカリフォルニア州マンザナー収容所へ連行された二世